春の章 左六女の桜 『いろは唄』

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二、 (ただし)を止める声 「あのー。ここには、今(はい)れないんですか?」  (ただし)は、禰宜(ねぎ)に向かってそっと言った。もはや、いびきが聞こえている。 「いいんですかー? 参道に入ってちょっとだけ見学しますよー」  わざと小さい声で言う。 「いいんですねー。無言の了承ですかあー。じゃあ、引き留められてないと言う事で。行かしてもらいまーす」  禰宜は相変わらず目を閉じている。見張りになってないなと、正は横目で見ながら注連縄(しめなわ)をくぐった。  参道の先を見る。正には、春霞(はるがすみ)に桜の花びらが混じって、薄桃色の壁のように見えた。  正は、いつものように、鳥居から見て、左側で六本目の桜の根元に水筒やらタオルを入れてあるバックパックを置いた。毎朝ここを起点として、参道を走り本殿で折り返して来ることにしている。  この桜の木は、とりわけ美しいと常々正は思っていた。御伽噺(おとぎばなし)のようだが、正には、桜の木も自分の事を好いてくれているのではないかと感じていた。 「お前は、いつ見ても、綺麗だな」  正は、木の肌に優しく触れた。  その時だった。 「行っては、なりません」  女性の声。  正は、周りを見渡すが誰もいない。いや、いるかもしれないが、霞のために見えないのか? しかし、遠くから聞こえる声ではなかった。 「あのー、どなたかいるんですか?」  正は、我ながら間の抜けた返答だと思った。 「参道に入ってはなりません。お帰り下さいませ」  また聞こえた。言葉の内容からすると、この神社の巫女(みこ)かもしれない。のんきな禰宜にかわって、神事に対する注意を喚起(かんき)してくれているのだろうか。 「貴方様(あなたさま)御霊(みたま)に関わることです。あのお(かた)をご覧になると、ここへは戻れなくなります」 「あのー、言ってることがよくからないんですけど。どなたですか?」 「…………」 「もしもーし、せめて姿を見せてください」  一切(いっさい)の反応がなくなった。
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