こぼれる、

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「うるさい! どこかへ消えて!」    母は一方で、私を痛めつけた。  それはいつ起こるかわからなかった。ずっと無視をされたり、腕を振りはらわれ、怒鳴りつけられた。   「ママはあんたの為に生きているんじゃない、あんたなんかに――支配されるいわれはないっ!」  そこにあった腕をいたずらにつねるように、母の笑顔と言葉は一転した。  その後、ふいに夢からさめたように、うつろな目をして、   「ごめんね、ひな。愛してるのよ。ママは愛してるのよ」  と、泣きながらくり返した。私はしめった母の背を、いつもさすった。    初経が来たとき、母は変な顔をした。それからやけを起こしたかのように、お祝いの料理を作りだした。   「ああどんどんオンナになるね」    ごちそうを前に、祖母は母に吐き捨てた。母はそれに、半端に笑ってみせた。  私の初経は遅かった。あばずれの意味も、その頃にはもう知っていた。  いつも母は、祖母の言葉に黙りこみ、笑っていた。  高一の時、祖母はホームにやられた。  母は、「やっと片づいた」と言った。 「あんなババアの介護なんて無理ね。絶対に殺してしまうもの」    「パパには内緒よ」と笑った。  祖母のことはたいして好きでもなかった。けれどそんな言葉、聞きたくなかった。  それから母は私に「内緒話」をするようになった。私を子どもではなく、一人前の友だちと認めたように。    ――裏切り者。  ひきつった低い声が耳の奥でこだました。  耳鳴りのように頭をきしませて、私は頭を振る。  マグと水の重みに疲れた手首がぐなりと下がった。コップの側面に水があたり、あたりに飛び散った。  その飛沫を頬に受けながら、私はくり返す。  ……反比例するように、そう、反比例するように……何でも話す母と……    大学生になり家を出て、私は母に秘密が増えた。 「ねえ、何してたの? これは何? ママこんなもの知らないわ。誰と買ったの?」    母は私のことを、何でも知りたがった。  友達、学校生活、日記の中身――私に恋人ができて、抱き合ったことさえ、きっと。  私は必死に隠しだした。そこに心があるのだと知ったから。  ふしだら、裏切り者、信じていたのに、ずっとずっと――   「ママは、ずっとひなを愛してきたのに、どうして、どうして裏切るの」    やっぱり私を捨てるのね。私は何も言えなかった。呆然と、打たれた頬のしびれを感じていた。   「あんたなんて私の子じゃない」    大嫌い、大嫌いよ――散乱した部屋の中で、床にうずくまって言った。  祖母のあばずれ、と言う声が聞こえた。    私のもう一人の祖母――母の母。  彼女は、母が七つの時に、男と一緒に消えた。子どもの母を置いて消えた。   「お前は卑しい血をひいてるよ」    私は父方の祖母から教えられた。  ちゃんと知ったのは二十歳の時だった。私は実家に帰って、母とふたりお茶を飲んでいた。 「ねえ、ひなのおばあちゃんは、ママを捨てていったの」  ひなのおばあちゃん、母は自分の母をそう呼んだ。父方の祖母のことは、けして私のおばあちゃんと言わなかった。   「とってもきれいだったの。でも、男にだらしない人で、私をいつもほったらかした。だから私はね――絶対子供をほったらかさない母親になるって決めたのよ」    ――ねえ、幸せでしょう。  母の目はそう言っていた。   「ママ、おばあちゃんのこと大好きだったわ、でも憎くて仕方ないの。ときどき、憎くて、憎くて……たまらなくなる」    母は、遠くを見ていた。それから不意にぐるりと私を見て言った。 「ひなは、おばあちゃん似ね」    三日月に反った目が、私をとろけるように見つめた。 ――おばあちゃんの名前、みどりっていうの――  
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