思いに耐えかねて

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思いに耐えかねて

「岸野様、足湯のアロマオイルは4種類 ございます。レモングラス、ラベンダー、 ゼラニウム、ユーカリ。どれがよろしい ですか」 彼に言われるままに椅子に座った僕は、 跪いた体勢で彼に差し出されたメニュー表を 手に取り、ぎこちなく微笑んだ。 「すみません。何が、違うんですか。 単に香りだけで選んでもいいんですか」 「もちろんお好みの香りで選んでも 構いませんし、リラックスしたいとか、 スッキリしたいとかご希望があれば、 それに合う香りをご案内いたします。 岸野様は、このようなサービスは初めてで いらっしゃいますか」 「はい、初めてです。とにかく足が疲れて いますし、リラックスからは程遠い生活を しています。今夜はゆっくり眠りたいです」 「それなら、ラベンダーをオススメします。 全般的に言えることですが、時間がなくて 湯船に浸かれなくても、足が温まると安眠 できますよ」 そう言って彼が、爽やかに微笑んだ。 「そんなものなんですね、楽しみだなあ」 「ラベンダーのオイルを入れましたので、 ゆっくり桶に足を入れてみてください。 熱くないですか?」 「大丈夫です‥‥ああ、気持ちいいです」 適温のお湯に足をつけながら、息を吐いた。 「10分、このままどうぞ。足を抜いたら、 お湯に入っていた部分の皮膚の色に注目 してくださいね」 時間潰しをされたいなら、机に置いてある スマホをお取りしましょうかと言われ、 慌てて首を振った。 「いえ、川瀬さんと話したいです」 「ありがとうございます。私で良ければ、 喜んで承ります」 跪いたまま、 腰につけたタイマーをセットした彼は、 僕に向き合った。 「遠慮なく、お話しくださいませ」 「あ、はい。これから時間まで、いろいろ 質問してもいいですか」 「どうぞ」 「川瀬さんのフルネーム、教えてください」 「えっ」 「あ、ダメですか」 「いえ。由貴と申します。理由の由に、 貴族の貴と書きます」 少しテレた彼を見つめながら言葉を続けた。 「いい名前ですね。おいくつですか?」 「今月で24歳になります」 「何日生まれなんですか」 「9月25日生まれです」 「あと3週間ですね。誕生日は誰かに祝って もらうんですか」 「いえ。シフトを確認しましたら、深夜まで 仕事でした。翌日は休みなので、ひとりで ワインでも飲もうかと思っています」 「恋人は、いないんですか」 「できたことはないですね‥‥」 「意外ですね。川瀬さん、モテそうなのに」 「このような夜中心の仕事ですからそもそも 友人と会う機会も少ないですし、出逢いは 限られています。職場は、男性しか在籍して おりません」 「女性のセラピストさん、いないんですか」 「ホテルに配属されるメンバーは、皆男性 です。やはり防犯上、危険ですから」 「なるほど‥‥」 「あ。岸野様のような信頼できるお客様 ばかりではないという意味でございます。 誤解されましたらご容赦ください」 「大丈夫です。とはいえ、僕も少しワインを 飲んでいますし、川瀬さんに質問責めして います。充分危険人物かも知れないですね」 「いえ、そんなことは」 彼とまっすぐ目を合わせて、微笑んだ。 「川瀬さんのこと、知りたくて」 「あ、はい‥‥」 タイマーの通知音が鳴り、片手で止めた彼が 「時間ですので、足をお拭きしますね」 と言った。 桶から足を上げると、 彼が言った通りお湯に浸かっていた 脛から下が血色良い赤色になっていた。 「すごいですね」 驚いて顔を上げると、彼は僕を見つめ、 「岸野様が眠れるように、努めさせて いただきます。足を私の太ももに乗せて いただけますか」 と言った。 跪いている彼の右太ももにそっと足を 乗せると、彼はタオルで僕の足を優しく 包み込んだ。 こういう拭き方があるんだと感動しながら 彼を見つめると、彼は少し考える素振りを して、こう口にした。 「岸野様、もしかして歩き回るような お仕事でいらっしゃいますか。例えば、 営業のお仕事とか。常に相手のことを考え、 気を張るお仕事」 「よくわかりましたね。足だけでわかるもの なんですか」 「やっぱり。かなり足に力を入れていらっ しゃるので。お辛くないですか、お仕事」 タオルで足の指を丁寧に拭かれながら、 彼にそう言われたらじわっと涙が出てきた。 「外資系の保険会社で営業をしてます。 成績はいい方ですが、常に同僚との足の 引っ張り合いで。僕も、友達に会う機会は ほとんどありません。今日から遅い夏休み です‥‥癒されたくてこのホテルに来ました。明後日まで泊まります。川瀬さん、 お願いがあります。聞いてくれますか」 「何でしょうか」 「足のケア、完全に仕上げないでください。 明日でも明後日でも、川瀬さんの空いている 時間を予約します。もう一度川瀬さんに 会いたい。ダメですか‥‥?」 「岸野様」 明らかに動揺する彼の腕に触れ、 僕は声を振り絞った。 「ごめんなさい‥‥こうして川瀬さんが 優しくしてくれるのはただのお仕事なのに。 でも、人に触れられるのがこんなに気持ちが 安らぐことだって感じたのが久しぶりで。 まだマッサージもされていないのに、もう 泣きそうなんです‥‥本当に何を言ってる のかわからないんですが‥‥どんな仕事を しているとか、言うつもりもなかったのに、 ただ川瀬さんが素敵な人だから、もっと あなたのことを知りたいと思うし、 僕のことを知って欲しい‥‥」 言いながら、震えが止まらなくなっていた。 彼は今、どんな表情をしているのだろう。 突然、お客にこんなことを言われて、 戸惑い困っているに違いない。 早く、謝らなければ。 そう思いながら、僕は彼に片足を預けたまま 静かに泣き始めていた。 「岸野様」 彼が僕の足を下ろし、 桶に浸かったままの足をそっと掴み、 またタオルで包み込んでくれた。 「中途半端で申し訳ありませんが」 そして手早くタオルで足を拭いてくれた後、 足を下ろしたと思ったら、 涙が止まらない僕を抱きしめてくれた。 「大丈夫ですか‥‥?」 「あっ。川瀬、さん‥‥っ」 予想外の展開に息ができなくなった 僕の背中をゆっくり撫でながら、 彼が囁いた。 「私で良ければ、癒します‥‥だから、 泣かないで。今夜は時間までになりますが、 明日は休みです。岸野様さえ良ければ、 こちらにお伺いします」 「本当ですか?」 「はい。誰かに必要とされることが、 嬉しいんです‥‥何時にお伺いすれば、 よろしいですか」 「川瀬さんがちゃんと眠って、 起きてからで大丈夫です‥‥ え?本当に‥‥?」 まだ信じられなくて、 彼の腕の中で甘え切れずにいる僕の頭を 彼は優しく撫でてくれた。 「これは、仕事ではありません。 誰にでもこのようなことはしませんし、 したくありません。明日、13時に伺います。 お部屋で待っていてください」 「は、はい‥‥」 恐る恐る彼の背中に腕を回すと、 次第に緊張が解れていくのを感じる。 温かい。 このまま眠りたいと思った。
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