再び、彼に抱きしめられて

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再び、彼に抱きしめられて

2日目の朝、6時。 空調はついたままだったが、 彼に触れられた身体がまだ温かかった。 あれから彼に抱きしめられたまま 眠りについてしまったようで、 ベッドのサイドチェストに彼が書いた メモが残されていた。 『お休みだったので、失礼させていただき ました。施術料金は、お会いした時に。 もちろん施術の続きはさせていただきます』 しかし、随分と僕も気を許したものだ。 いくら恋心を抱いた相手とはいえ、 初対面の店員に身体を預け、 眠りについたのだから。 ミニ冷蔵庫に備え付けられたミネラル ウォーターのキャップを捻り、 一口喉に流し込む。 カーテンを開け、窓の外を眺めた。 朝早い時間だからか、下を歩く人は少ない。 朝食を摂るにも早いと思いテレビをつけた。 ぼんやりとアナウンサーが喋るのを見ながら 傍らの椅子に座った。 彼は13時に再びこの部屋を訪れると言った。 仕事ではないし誰にでもする訳ではないと。 もう一度、 そして昨夜よりもゆっくり会えるかもと、 少しずつ気持ちが昂ってくるのを感じた。 最初は外見に惹かれたが、 この部屋で数十分過ごしてみて、 彼の優しさに溢れる言動に心を奪われた。 とはいえ、 近づき方を間違えたら、二度と会えない。 そんな薄く、危うい関係だと思った。 とりあえず、 彼が来るまで何をして過ごそうか。 いつもならもう起きて洗顔の後、髭を剃り、 購読している新聞を読んでいるが、 夏休みの2日目の朝だ。 テレビもそこそこに電源を切り、 もう一口ミネラルウォーターを飲んだ。 着替えて、財布とスマホ片手に 散歩でもしてこよう。 そして帰ったら、朝食に行こう。 新聞も読みたいし、意外と時間はないかもと 浴衣を脱ぎ捨て、 洗顔のためにユニットバスに向かった。 ホテル周辺を30分ほど散歩してみたが、 高速道路の入口とビルが林立しているだけで 大したものは発見できなかったが、 朝食のブルーベリーヨーグルトが おいしかったのと、 生搾りのオレンジジュースをサービスで 部屋に持ち帰れたのは収穫だった。 部屋のドアの横に新聞が立てかけてあり、 コンビニで買わずに済んだのも良かった。 スマホから大好きなジャズを流しながら、 ゆっくり新聞を読み、ジュースを飲んだ。 1時間後。 慌しい日常から離れた時間を過ごし 満足した僕は、スマホのアラームをセットし ソファに横になった。 後でレンタサイクルを借りて、 計画通り東京タワーにでも行ってみようと 思っていた。 ソファに寝そべり目を閉じて息を整えたら、 すぐに睡魔が襲ってきた。 30分で起きるつもりでアラームをかけたが、 その時見た夢があまりにも心地よく、 目覚めるのがもったいないと思った。 昨夜、彼の胸の中で眠りについたが、 夢では更に彼に抱き止められながら、 彼に甘く情熱的なキスをされるのだ。 それがリアルで、唇の感触まで鮮明だった。 『葵、ずっとそばにいるよ』 『だから、僕を愛して』 そんな囁きまで残した彼にしがみつき、 微笑んだところでアラームが鳴った。 スマホ片手に、僕は苦笑いした。 久しぶりに、ハッピーな夢を見た。 大抵見るのは、仕事の夢。 数字に追われて走り回っているか、 顧客に契約を断られるかのどちらかだ。 嫌でも仕事に戻るのだから、 休みの日くらいは楽しい夢が見たいと 思っていたが、これ以上ない夢で満足だ。 その場で大きく伸びをした僕は、 レンタサイクルを借りるため、 フロントに内線連絡を入れた。 レンタサイクルを返却し、 ホテルの部屋に戻ってきたのは、12時過ぎ。 買ってきたファーストフードの紙袋を テーブルで開けた。 食べたら、 汗を流すために軽くシャワーを浴びよう。 彼を迎え入れる13時まで、あと少し。 やっぱり時間は、あっという間に過ぎる。 シャワーを浴び、Tシャツとスラックスに 着替えた。 ベッドチェストにあるデジタル時計は、 12時58分を差している。 制服を脱いだ彼はどんな雰囲気なんだろうと ドキドキした。 そして13時ジャスト、 待ち人が来たことを示す部屋のチャイムが 短く鳴った。 「こんにちは」 ドアを開け、彼を迎え入れた。 白いTシャツに細身のジーンズの彼が 僕に爽やかに微笑みながら、 まあまあ大きい紙袋を手渡してきた。 「何ですか、これは」 軽く振ってみると、かさかさ音がする。 「まずは、昨夜の続きをしようかと」 「そう言えば、足湯で終わりましたね。 あ、お金払わないと。すみません、 昨夜は寝てしまって」 「大丈夫ですよ。もしかして、シャワー 浴びたばかりですか?岸野様から、 シャンプーの香りがします」 「はい。ついさっき。レンタサイクルで 東京タワーに行ってきたんで、汗を流し ました」 「夏休みを満喫していますね。素晴らしい。 では早速、リフレクソロジーを始めますね。 足湯の代わりに、用意した蒸しタオルで 足を拭かせていただきますので、ベッドの 端に横になっていただけますか」 「あ、はい」 「オイルも使いますので、足の下にタオルを 敷きますね‥‥では横になってください」 言われるままベッドの端に足がかかるように 横になった。 彼は僕の爪先を軽く持ち上げ、蒸しタオルで 丁寧に親指から拭いてくれた。 「熱くないですか」 「はい。大丈夫です。気持ちいいです」 「昨夜はあれから、よく眠れました?」 「はい。6時までバッチリでした」 「良かったです。私は1時に仕事が終わって 帰宅後にお風呂に入って9時まで寝ました」 「やっぱりそんな時間まで働いているんですね」 「夕方からのシフトですから。働いている 時間は、岸野様の方が長いかも知れません」 「お疲れ様です」 「ありがとうございます。では、オイルを 選んでいただけますか。お持ちしたのは、 グレープフルーツとラベンダーです」 「グレープフルーツがいいです」 「かしこまりました。痛かったら、遠慮なく おっしゃってくださいね」 「はい」 寝そべりながら、彼の繊細な手指が僕の足に オイルを馴染ませるのを見た。 「いい香りですね。よろしくお願いします」 「このオイルは岸野様のためにご用意した、 特別なものです。こちらこそ、よろしく お願い致します」 右足に優しく触れられ、施術が始まった。 「土踏まずと、かかとが特に固いですね。 痛くはないですか?」 「土踏まずは、痛気持ちいいです。 足にもツボがあるんですよね」 「はい。土踏まずのこの部分が、 凝り固まっています。ここは、胃ですね。 心当たりはございますか」 「暴飲暴食したり、不規則な食事習慣です」 「今日、揉みほぐしますとかなり代謝が 上がりますので、トイレが近くなったり、 身体が温かくなります。岸野様のように、 足を酷使するお仕事でしたら、日頃の メンテナンスは特に重要です。ご自身で マッサージできるなら、ラップの芯や ゴルフボールを使って解してみてください。 時間がないですということなら、1ヶ月に 1度このようなお手入れをオススメします」 「はい‥‥あ、いたっ!」 「親指が痛いのは、頭です。かなり、頭も 休まっていないのでは?」 「はは、バレました?」 「たまにはリラックスできる環境を作って、 ご自身を労ってあげてくださいね」 「はい。ありがとうございます」 「脛から膝裏まで流していきます‥‥ かなり痛いと思いますが、どうぞお覚悟を」 「は、はい‥‥痛い!」 「こんなになるまで何もなさらなかった のは、驚きです。なかなかのレベルで いらっしゃいますよ」 「ぬわー」 痛気持ちいいを通り越して、痛い。 とはいえ、彼がうっすら汗をかきながら 僕の足を解しているのを見たら、 そんなことは言っていられないと思った。 時々悶絶しながら、彼の施術を受け、 50分のコースはこうして終わりを告げた。 「ありがとうございました‥‥」 「いえ。初めてのリフレクソロジー、 いかがでした?」 ホテルの備えつけの緑茶を2人で飲んだ。 「最高です。またお願いしたいです。 川瀬さんは、ホテルの顧客以外は 施術しないんですか?」 「基本的にはそうですが」 「基本的に?」 「岸野様、ちゃんと店舗を見つけて、 予約されます?セラピストのレベルは 店舗によってまちまちですので、 岸野様さえ良ければ、いい店舗が見つかる までは私がケア致しますよ」 「本当ですか?ぜひお願いします」 「知り合い価格で、1000円安く致します」 「ありがとうございます」 「では、本日の会計を。7000円です」 「はい。わかりました」 財布から5000円札と1000円札を出した。 「川瀬さん。お休みなのに、来ていただき ありがとうございました」 「誰にでもする訳ではございませんので。 岸野様、少しは元気になれましたか」 「はい。昨夜は泣いてしまって申し訳 ありませんでした。あの、次の予約は どうやってすればいいんですか?」 「店舗を通すと、正規の金額での施術に なりますので、携帯番号をお教え致します。 個人所有のプライベート携帯なので、 この事はご内密にお願い致します」 「ありがとうございます。わかりました」 「ショートメールをいただければ、 日程を調整して、ご返信致します。 イライラした時や、疲れた時にでも 遠慮なくご連絡くださいね」 「はい。あと」 「はい?」 「まだ時間ありますか?」 「はい。今日は何も予定はないですが」 「昨夜から川瀬さんに癒されてるので、 ダメ元でお願いがあるんですが、 僕の願いを聞いていただけますか」 「何でしょう」 「少しだけでいいので、もう一度僕を 抱きしめてくれませんか」 「え。それはどういう意味で?」 「親愛というか、癒しというか」 「‥‥いいですよ」 小さく咳払いをして、彼が言葉を続けた。 「ベッドに行きましょう」 意外なことになり、驚いた。 その場で軽いハグをするのかと思ったが、 彼とベッドで抱き合う?! 自分から提案したハグだったが、 恥ずかしくて彼に目を合わせられずに ベッドに上がった。 「僕も、出かける前にシャワーを浴びて 着替えて来たのでベッドに上がりますけど。 いいですよね」 僅かにくだけた口調になった彼が、 続けてベッドに上がる。 「岸野さんは、甘えたい人なんですね」 横になりましょ?と彼に言われ、 素直に横になった。 ダブルベッドに、大好きな彼と2人。 ドキドキしない訳がなかった。 「抱きしめて欲しいって」 彼がそう言って、近づいてきた。 「すごいお願いだよね」 彼から完全に敬語が抜けたと気づいたのと、 身体を引き寄せられたのは同時だった。 「僕のこと、好きなの?」 彼の甘く煌めく瞳に見つめられ、 僕は迷わず頷いた。 「僕も、好きだよ」 「えっ」 驚き、目を見開いた僕を 彼は微笑みながら抱きしめてきた。 彼と息がかかるくらいの距離に、 今更ながら息が止まりそうになる。 「川瀬、さん」 たまらなくなり息を吐いた僕は、 彼に強く抱きしめられて、 身動きが取れなくなってしまった。 それでも、彼の言葉の続きが聞きたかった。 「本当に、好きですか?僕のこと」 震えが止まらない声でそう問いかけると、 彼は僕の耳元でこう囁いた。 「一目惚れした。葵に」 その言葉で、一瞬息が止まった。 さっき見た夢に繋がりそうだと。 彼の胸の中で予感に打ち震えている僕に、 更に彼は囁いた。 「ずっと側にいたい。だから僕を愛して」 夢と全く同じ言葉を彼から聞いて、 僕の瞳に涙が溢れた。 「また泣いてる。それじゃキスできない じゃん。葵、泣かないでよ」 そう言って苦笑いする彼にしがみつき、 首を振った。 「大好き‥‥」 「僕も何度でも言う。葵、大好きだよ」 それから少し時間を経て、涙が収まった僕に 彼は情熱的なキスをしてくれた。 新しくできた僕の恋人、川瀬由貴は、 2歳年下の美しい外見と優しい性格の持ち主。 数日前までこんな風に出逢えるなんて、 全く想像もしていなかった。 絶対に離さない。離したくない。 彼と深いキスをしながら、 心にどんどん愛が満ちていくのを感じる。 SNSに元カレに悪口を書かれて 悲しみに暮れた失恋の日々は、 もう遠い過去のこと。 願わくは、 ずっと彼と2人で歩いていけますように。
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