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踏み込めない理由
会社に入ってから、
いったい何組の社内カップル誕生と別れを
見てきたことか。
平均年齢25歳、設立5年。
社長が38歳の広告代理店という社風からか、
他人との付き合いに奔放でラフな人が多く、
連日、どこかの部署で
懇親の意味での飲み会が開催されている。
大学を卒業し、3年。
大手に行かずにこのベンチャーを選んだが、
予想以上に人の入れ替わりが激しく、
入社1日で退職する者がいたり、
早期退職した人がいた後に
明らかに社内にいた者の仕業だと思われる、
備品盗難事件があったりした。
もともとそこまで外交的ではなかった僕は、
だんだん会社の人が信じられなくなり、
いつしか職場では淡々と仕事をこなし、
業務外での付き合いを
特定の人以外、控えるようになっていた。
その特定の人とは。
「岸野、さん」
僕と同じ年齢だが、専門学校を卒業し、
僕より2年早くこの会社に入った岸野葵は、
浮き沈みのある僕を、
優しく穏やかに受け止めてくれる先輩だ。
若いメンバーばかりで、
時々収拾がつかなくなる社内をまとめる
初期メンバーのひとりとして活躍している。
「川瀬、どうした?」
隣の席に座る岸野を呼び、
パソコンで作成途中の企画書を指差した。
「ここ、どう書きます?岸野さんなら」
パソコンに顔を寄せ、岸野が言った。
「悪くはないけど、もう少し具体的に
書いてもいいんじゃないかなあ。
相手に伝わるように」
岸野と話していると、とても安心する。
信頼できる。
同じ25歳だというのに、この落ち着き。
社長に一目置かれているのもよくわかる。
「ありがとうございます」
頭を下げて、パソコンに向き合おうとした
僕の耳元で岸野が囁いた。
「川瀬。今夜、どう?」
すっと僕の腕に手を添え微笑む岸野に、
僕はどう答えていいのかわからずに
曖昧に微笑みを返した。
そう。
これは、次のステップに移行する
岸野からのストレートな誘い。
金曜日は仕事の締め切りで忙しく、
昼食もままならない僕を見かねて、
岸野が夕食に誘ってきたのをきっかけに、
毎週金曜日、仕事終わりに夕食を食べる
ようになった。
もちろん、岸野と2人きりでだ。
それが先週までで、もう3ヶ月経った。
初めてご飯を食べた時に、
男性が恋愛対象だということは
お互いのカミングアウトで判明していたし、
岸野が僕を見る目で「対象」であることは
最初から明確だった。
だからたぶんそのうち誘われるだろうとは、
予感していた。
僕だって岸野に惹かれるものがあって、
2人きりで食事をしているのだから、
素直になればいいのだと思うが。
別れる時にトラブルになった元カレがいた。
大学3年生の時だった。
就活で忙しくなり、ケンカが増えて、
すれ違いを起こしていた同級生の彼を
自宅に呼び、距離を置きたいと言ったら、
何を思ったか傍らにあったガラスのコップを
テーブルの角で割り、欠片で手首を切った。
幸い、手首の傷は浅く、
すぐに病院で手当を受けられたので、
大事には至らなかったが、
それ以来怖くて恋愛関係に踏み込めない。
手首を切った元カレの顔が、
時間が経ってもまだ鮮明に浮かぶのだ。
理性的な岸野がそんな迂闊なことを
するとは思えないが、
万が一別れるようなことになって、
同じようなトラブルが起きたりしたらと
思うと、岸野の誘いに素直に乗れない。
この穏やかで、
友達のような関係ではダメなのか。
いっそ、岸野に伝えようと思う。
この職場に、
しばらくは腰を据えて働く。
だからあなたの前からは消えたりしないと。
「川瀬、まだ帰れない?」
定時を過ぎて慌しく帰る準備をする周りを
よそに、まだパソコンに向かっていた僕に、
岸野が声をかけてきた。
座っていた椅子を僕の席に近づけ、
パソコンを覗き込む。
「手伝おうか」
「いえ、もう少しで終わります」
「じゃあ、帰る準備して待ってるね」
椅子を鳴らして立ち上がり、
席を離れた岸野の背中を見て、息を吐く。
ちゃんと言えるかな。
岸野の儚げな眼差しと小さな唇を見ると、
いつも抱きしめたくなるのに。
企画書を仕上げ、
パソコンの電源を落とすタイミングで、
後ろから岸野が僕に抱きついてきた。
「ダメですって」
首筋に回る岸野の腕を解きにかかりながら、
僕がそう言うと、岸野はまた僕の耳元で
「もう誰もいないよ」
と囁いてくる。
耳に岸野の息がかかり、僕は震えた。
ああ、好きだ。
振り向いたらきっと、
岸野とキスしてしまうだろう。
でも。
「こっち向いて」
「嫌です‥‥」
心とは裏腹なことを言い、
僕は再び岸野の腕を解こうとした。
「もう我慢できない」
「食事行きましょうよ。予約したのでは?」
「キスしたらね」
「しません。あっ」
右の耳たぶを岸野に噛まれて、声が出た。
「岸野、さんっ」
「僕のこと好きでしょ?素直になってよ」
「なりません」
「何でそんな頑なに」
「別れるのが怖いからです」
言わなければならないことをさらっと言えて
僕は思わず小さく笑ってしまった。
「何それ」
パッと岸野の手が離れて、
首筋が自由になったところで振り向いた。
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