やっぱり、好き。

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やっぱり、好き。

数日後の金曜日。 「今夜だけど、僕の家で飲まない?」 と隣に座る岸野に耳打ちされた時、 視界の端に苦笑いする佐橋が見えた。 「川瀬?どうしたの」 反応が乏しい僕に 畳み掛けるように問いかけた岸野に 慌てて頷くと、息を吐いた。 佐橋の視線が気になって、 思うように岸野に意思表示ができない。 岸野の言動で心が揺れ動く存在が 僕以外にいることを、 岸野は知らないのだろうか。 岸野が悪い訳ではないが、 どうか佐橋を刺激しないで欲しいと思う。 面倒なことに巻き込まれたくない。 そう思うのは、 まだ岸野との進展に覚悟ができていない 証拠なのだろうか。 佐橋の岸野への並々ならない気持ちを知り、 羨ましかった。 佐橋は佐橋なりに悩んだのかも知れないが、 岸野への恋心を認め、進展を望んでいる。 それに引き換え、僕はまだ迷っている。 何も拘らずに岸野の手を掴めばいいのか。 しかし、岸野は言っていた。 もう僕を愛し始めていると。 果たして僕に愛情を示す岸野を受け入れ、 愛情を返していくことはできるのだろうか。 迷いが出そうで、怖かった。 迂闊に踏み込んで、 無駄に傷つけるようなことをしないか、 不安で堪らなかった。 隣に座る岸野に気づかれないように、 視線を送る。 いっそ、岸野に言ってみようか。 現時点で抱える、自分の不安や悩みを。 岸野は、何と言ってくれるのだろうか。 「川瀬さん」 顔を上げると、目の前に佐橋が立っていた。 「コピー、終わってますよ」 パーティションで仕切られたコピー機の前。 いつの間にか、 僕はひとりの世界に入っていたようだ。 「ああ、ごめん。次、使う?」 「はい。というか僕のこと気にして、 岸野さんと話せなくなってません?」 「‥‥まあね」 そう言ってコピー機の設定をリセットし、 その場を立ち去ろうとしたが、 佐橋の次の言葉に、度肝を抜かれた。 「実は昨夜、告白しました」 「えっ」 「早いと思いました?でも後悔はないです」 「あ、うん」 「川瀬さんは、告白しないんですか。 ぐずぐずしていると、僕が奪いますよ?」 ふんわりとした笑顔とは裏腹な、 佐橋のはっきりした言葉を 目の当たりにし、僕は動揺した。 佐橋は本気だ。 もう一刻の猶予もないと思った。 結論を出さなければ、本当に手遅れになる。 「遅かったね」 席に戻ると、岸野に声をかけられた。 「あ、はい」 返事をしたが、心は別のところにあった。 その日は定時まで気もそぞろで、 全く仕事にならなかった。 「行こうか」 18時。定時を告げるチャイムが鳴った。 皆が慌ただしく席を立ち、 フロアを後にする姿を見ていた。 手早くパソコンの電源を落とし、 カバンを持ち上げた岸野にそう言われて、 ぎこちなく微笑んだ。 佐橋の告白を 岸野はどう受け止めたのだろう。 会社から程近い、 岸野のひとり暮らしの家に行くのは、 初めてだった。 酒と食材を買い込み、お邪魔した。 必要最低限の調度品しかない、 シンプルな1LDKの部屋。 リビングの窓は南向きで、 1階でも十分日当たりがいいらしい。 2人掛けのソファの横にカバンを置き、 手を洗った僕は、 岸野とソファに並んで座った。 「良ければ、泊まってもいいよ」 「あ、はい」 「とりあえず、今週もお疲れ。乾杯しよう」 岸野に微笑まれ、缶チューハイを手にした。 「お疲れ様です」 「乾杯」 岸野のビールを流し込む白い喉を横目に、 缶チューハイを口にした。 「後でパスタ、茹でるね」 「はい。あの、岸野さん」 「何?」 「佐橋に告白されたんですよね」 「佐橋くんから聞いたんだね。そうだよ」 「僕がとやかく言うのは違いますけど、 彼と付き合うのなら言ってもらえますか」 「付き合う?川瀬がいるのに?どうして、 そんな発想になるのか全く見当がつかない。 川瀬、先日の僕の話をちゃんと聞いてた? 他の誰でもない川瀬と付き合いたいって 言ったじゃない」 「すみません‥‥」 「川瀬、悩み過ぎて混乱してるんじゃない? 僕で良ければ、今の心境を話してみてよ」 「え、いいんですか」 「うん。待ってると言ったけど、川瀬の 気持ちは常に知りたいからね」 「そうですか‥‥」 「少しは、僕と付き合うことに前向きに なれた?」 「それなんですけど‥‥佐橋が羨ましくて」 「え?羨ましい?」 「岸野さんに対して、迷いなく付き合いたい っていう気持ちがあって。僕はまだ怖いです ね、岸野さんとは別れたくない気持ちばかり 先行してしまって」 「別れないよ?川瀬とは絶対に」 「そう言ってもらえるのは嬉しいんですが」 「そんなことを考えてばかりじゃ楽しくない でしょ。困ったなあ」 「すみません」 「もし、僕が佐橋くんと付き合うとしたら」 「あ、はい」 「まあ実際は、ないんだけど。川瀬の心は? どう気持ちが動くと思う?」 「そうですね‥‥」 「嫌だと思うのなら、次の選択はひとつ」 「選択?」 「僕と付き合うのを選ぶことだよ」 「んー」 「僕のこと、嫌いではないよね」 「もちろん、岸野さんのことは好きです」 「好きな人と付き合いたい人はたくさん いるのに、川瀬は違うんだ。そこまで、 元カレとのことがトラウマなんだね。 でも別れ話をしたとして、僕がそんなことを すると思う?まあ別れるつもりはないから、 簡単に納得はしないけど。それもトラウマに なりそう?」 「もはや、何を悩んでいるのかわからない。 そんな風に見えますよね」 「うん」 ビールを飲み、ナッツを口にした岸野は、 苦笑いしながら言葉を続けた。 「もう少し、踏み込んでもいい?」 「はい」 「僕を好きだっていう気持ちは、like? それともlove?」 「絶対にloveです。抱きしめたいですし、 キスもしたいですから」 「あのさあ」 「すみません。言いたいことはわかります」 「仕方ない、荒療治で行くか‥‥」 岸野はそう言って、溜息をついた。 「川瀬、僕に缶チューハイを預けて」 「え?あ、はい」 言われるがままに、 岸野に持っていた缶チューハイを手渡した。 「ありがとう」 岸野は微笑み、 目の前のテーブルに缶チューハイを置くと、 次の瞬間、僕の両腕に手を添えて、 ソファに押し倒してきた。 「な、何を」 岸野にあっさり組み敷かれた僕は、 驚いて岸野を見上げた。 「その気になれないなら、させるまでだよ」 岸野の肉厚の小さな唇が、僕の唇に重なる。 「ちょっと、待ってっ」 慌てて顔を背け抵抗したが、 岸野はそれを利用して、 僕の右耳を甘く噛みながら、 ワイシャツのボタンを外しにかかっている。 「川瀬、覚悟しろ」 馬乗りになった岸野に耳元で囁かれ、 僕は大きく息を吐いた。 「岸野さんっ」 「怖がるなよ、僕だって不安になる」 ズボンのベルトを片手で外した岸野に ワイシャツを捲り上げられたが、 胸の前ではだけて 腕だけ残ったワイシャツが手枷となり、 僕は思うように身動きが取れなくなった。 岸野の言葉が、続いていく。 「ごめんな。こんなことダメだって わかってる。だけど、僕の気持ちも わかって欲しい。何で好き同士なのに、 付き合えないんだよ?辛くて苦しいよ」 そう言って 岸野は自分のワイシャツを脱ぎ捨て、 再び僕に覆い被さってきた。 今度は、 岸野の舌が僕の口の中を這い回る深いキス。 不器用で、決して上手とは言えないそれを 僕は受け入れた。 長くぎこちないキスの後、 唇を離した岸野が声を振り絞って言った。 「一緒に悩もう。川瀬」 「一緒に‥‥?」 「それが、付き合うってことだろ?」 その言葉を聞いて、僕の視界は涙で潤んだ。 ああ。 僕は岸野の何を見て不安になっていたんだ。 この人なら、きっと大丈夫。 大丈夫だ。 その直後、 ワイシャツの手枷を解いてくれた岸野を 僕は両腕を伸ばし、抱きしめた。 「僕こそごめんなさい。覚悟します。 ちゃんと岸野さんと付き合います」 岸野の首筋にしがみつき、 岸野の唇に何度もキスを返した。 もし岸野と手を繋ぎ歩む未来に 暗雲が立ち込めていたらと思うと、 まだ不安は隠せない。 でも、それでも僕は岸野が好きだ。 それが唯一の真実で、全てなのだ。 「川瀬、愛してるよ」 岸野のまっすぐ僕だけを見つめる眼差し、 率直だけど優しさに満ちた言葉の数々に、 僕はこれからも恋焦がれていくだろう。 愛し、愛される恋の醍醐味を、 今夜から岸野と味わおう。
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