第十一章 焦燥と失敗

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*  ふっ、と意識が戻ってきた。  どうやら、眠っていたようだ。  固い長椅子に観葉植物、消毒の匂いの漂う広い部屋――ここが開院前の病院の待合室だと気づいたとき、緊張の糸が解けたように肩の力が抜けるのがわかった。  まだ電気もついていない、夜明け前の弱々しい光だけがかすかに照らすその中で、私はひとり何をすることもなく静かに座っていたらしい。頭に包帯が巻いてある。親指にもガーゼが付けられているようだ。  まだ覚醒しない脳みその中へ薄暗い景色を流し込んでいると、ふいに壁際の赤い光が視界の端で明滅した。赤。鮮やかな……消火栓の赤いライト。 (桂さん)  途端、フラッシュバックに気圧されるように、私は反射で立ち上がった。桂さん。そうだ、私は、彼と一緒に、ここまで。  誰もいない病院をひとりバタバタと走り回る。不思議と足は行き先を知るように、少しの迷いもなくエレベーターへ向かった。  だって、ここはあの病院だ。卓弥とはじめて喧嘩した雪の夜、彼に助けてもらった、あの日の……。 「桂さんっ……」  病室のドアの取手に縋りつき、震える手で開けようとすると、部屋の中から足音がして静かにドアがスライドして開いた。  そして、息を呑む。――彼女は私の姿を見た途端、鬼のように両目を吊り上げ、 「何しに来たの!?」  と、廊下に響き渡るほどの大声で叫んだ。  彼女の華奢な肩の向こうには、大きな医療用ベッドが見える。白い布団が盛り上がるそこには大きなモニターが取り付けられていて、ドラマでしか見たことのないような心電図が静かに波打っている。  彼女は――雛乃さんは私の肩を突き飛ばすと、部屋の奥を守るみたいに後ろ手で素早く扉を閉めた。大きな瞳が真っ赤に腫れて、頬には涙の跡が見える。……そして彼女は私の正面に立ち、 「あんた、桂がどんな状態かわかってるの!?」  と声を荒げた。 「あの……」 「身体の中で出血してるの! 移植手術した腎臓から! あんたの旦那にめちゃくちゃに蹴られて、傷だらけになって、熱も出て……桂は今、すごく痛くて、苦しい思いに耐えてるの!」  色鮮やかな赤が脳裏をよぎり、ひゅっと喉から音が漏れる。  黙り込む私をじろりと睨み、雛乃さんは鼻を鳴らす。醜く卑しい生き物を見る、明らかな侮蔑の眼差し。 「よく平気な顔でここまで来れたよね。あんたがいても邪魔なだけだから、さっさと帰れって何度も言ったのに」 「私……」 「もう本当にやめて。桂に近づかないで! あんたがいるから桂はこんな、こんなつらい目に遭ってるんだ」  彼女が瞬きをすると、涙が火花みたいに飛び散った。 「あんたのせいだ」  短い言葉が胸を射抜く。 「あんたのせいだ!!」  ――私のために。  立ちすくむ私の頭の中を、走馬灯が駆け巡る。本当に楽しかった日々。幸せで溢れていた毎日。  桂さんはたくさんのものを惜しみなく私に与えてくれた。優しい声と、熱い抱擁と、言葉にできない確かな愛を。  でも、私は……やっぱりそれを受け入れていい人間ではなかったんだ。 「……ごめんなさい……」  か細い謝罪に返事はなかった。頬を伝う一筋の涙を、拭ってくれる人はもういない。  自分の手で涙を拭いて、私はゆっくりと顔を上げる。カーテンのない廊下の窓から、刺すような光が差し込んでいる。  朝が来た。  甘く短く儚い夢が、現実へと呑まれていく朝だ。
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