第四章 新たな一歩

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 静かに息を吞んだ私を、諏訪邉さんは静かに見つめる。  それはまるで、ほっと安堵した私の心をなじるみたいな鋭い瞳で……もちろんそんなことはないはずだけど、どうにも視線を受け止めきれず、私は唇を結んだままただ黙って目を逸らす。 「軽い脳震盪(のうしんとう)とのことで、今は別の病院に入院しています。早ければ明日にでも警察からの聴取があるでしょう」 「…………」 「榎本さんの方にも、話を聞きたいという連絡が来ています。日程を決めるため、目が覚めたら警察へ報告するよう言われていますが……」  うつむく私の引きつる顔を下から覗き込むみたいに、諏訪邉さんは小首を傾げ、探るような目つきで言った。 「――これから、()()()()()ですか?」  どくん、心臓が強く跳ねる。  ()()()()()? 今までそんなの、一度だって考えたことはなかった。  いや、正確に言えば、考えたとしても実現できる見込みが一度もなかったのだ。空想だけならいくらでもしてきた。でもそれは本当にただのイメージ。現実へ繋がる可能性のない、言ってしまえば無意味な妄想だ。  でも今、私は問いかけられている。私がこれからどうしたいのか――どんな未来を望んでいるのか。  右へ左へ泳いだ視線が、縋るように彼を見上げる。綺麗な顔に何かを隠した、意味深い微笑みを浮かべ、諏訪邉さんはその眼差しで私の心をそっと揺さぶる。  いいんだよ、と。  耐えることは、何もないのだと。 「わたし」  シーツを握る指先に、自然と力が籠もっていた。 「……今まで諦めてきたことをやりたい。自分で稼いだお金を使って、ご飯を食べて、洋服を買って、……化粧をしたい。髪だって切りたい。本当はずっとカラーもしてみたかった」 「…………」 「人の顔色ばかりを窺って、言いなりになって生きるのはもう嫌。私は自分の足で立って、自分の歩きたい方へ歩いて、自分のやりたいことをやって、それで、」  ――自分自身の人生を、自分の手で創っていきたい。  そこまで一息で言い切ってから、私ははあっと息を吐いた。左のこめかみから頬にかけてを、一筋の汗がツと伝っていく。遅れて湧き上がる羞恥心に、みるみるうちに顔が熱くなる。 「よ……幼稚だと、笑われるかもしれませんが」  あははと乾いた笑みを浮かべて、私は自分の頬を掻く。全身の体温が一気に上がって、彼の瞳をまともに見られない。 「笑いませんよ」  うろたえる私とは対照的に、諏訪邉さんはいつもどおり冷静だった。長い足をゆっくりと組み替え、彼は少しだけ顎を引くと、 「素敵だと思います」  と言って、どこか恍惚と微笑んだ。
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