夜逃げ屋

8/8
前へ
/8ページ
次へ
「あの男、私の大事な小夜子を奪って監禁するだなんて。ねぇ、小夜子。ずっと苦しかったよね? あんなところに閉じ込められて」  静かな声が小夜子と私を呼ぶ。  おかしい。おかしいな。  この声に聞き覚えがある。むしろ今までどうして忘れていたのだろうか。  封じられていた記憶がぶわりと蘇る。自由を奪われ、体の隅々まで触れられ、望まぬ行為を強いられていたあの時の――。 「い、いやあああああああっ!」 「あぁ、そんなに怯えた顔をしないで。取って食いはしないって言ったじゃない」  部屋の隅に逃げても、もうこれ以上の逃げ場はない。薄暗い部屋で、胡蝶さんがゆっくりと迫ってくる。  私の前にしゃがみこんだ。  そしてその手をまた頬に。 「ねぇ、どうして私があっさりあなたから離れたと思う?」  頬を撫でる手が胸元におりていく。黒いネイルが輝く手は、私を支配していった。 「それはね、待っていればあなたから助けを求めてくれると信じていたからよ」  あぁ、何もかもが彼女の掌の上だったのだ。  そう気づいた時にはもう遅く、再び牢獄に迷い込んでしまった私は彼女に――黒い影に、可愛がられ続けるのだろう。 「アイツに監禁されていると勘違いした小夜子が、いつか夜逃げ屋という私を見つけて頼ってくれるだろうって。ふふ、また戻ってきてくれて嬉しい」  彼女は私にそっとキスをする。甘ったるいにおいに、意識が微睡んだ。  視界の隅で、あの花柄の紙切れが映る。そこに書いてあった少しだけ雑な字が、私を哀れむように見つめていた。 「おかえり、小夜子」  私はまた、彼女に食い荒らされる獲物となる。  ――首に刺青を入れた女にだけは絶対に関わるな。  彼が書いてくれた優しい箱庭のルールの欠片が、ただそこに転がっていた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加