夜逃げ屋

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 この部屋から勝手に出ないこと。  インターホンが鳴っても無視すること。  郵便物には触れないこと。  どうして外出したい時は必ず変装をして2人で出かけること。  怪しい人には関わらないこと。  小さな花が散らされた貼り紙を今日もぼんやり眺めていた。紙束から雑にちぎったのか、歪に欠けたその紙を毎朝毎晩読み直すのが私の日課だった。  監視の目がなくとも、これを読むことは義務づけられている。特に罰則などはないけれど、やめたら何をされるか分からなくて毎日欠かさず『この部屋でのルール』を脳に流し込んでいた。  それを終えれば、閉鎖的な一日が終わりを告げる。明かりを消して、冷たい毛布の下へと潜る。  普段ならば、これで私の一日は終わる。  だが、今日はこれきりでは終わらない。そう、彼が居ない夜だから、行動するにはもってこいだった。 『こんばんは』  たったその五文字を画面の中に打ち込んだ。程なくして黒い背景のチャット画面に既読の印が小さく表示される。 『今日も無事です』  定例の報告をすれば、画面上部に表示された『夜逃げ屋 胡蝶』から返事が返ってくる。 『無事でなによりです。今日は彼はいないんですか?』 『はい。今日は珍しく仕事の付き合いで遅くなるそうで』  そう分かっていながら玄関に続く扉を確認する。その扉が開くこともなければ、自分以外が発する物音も聞こえない。 『では、今日は佐野さんお一人ですね?』 『一人です。少なくとも彼はあと三十分は帰ってこないはずで……』 『なるほど』  そう返ってくると、しばらくチャットの更新が止まる。スマホを握りしめたまま暗闇で画面を見つめていれば、やがて彼――彼女かもしれない――から何よりも望んだものが返ってくる。 『今日、夜逃げをしませんか』  やっとだ、と私は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。バクバクと心臓がうるさい。私は震える手で文字を打つ。 『……本当に、できるんですか?』 『もちろん。それがこちらのお仕事ですので。もっとも、佐野さんが望むのであれば……覚悟があれば、の話ですが』 『あります。お礼は、いくらでもします。だから』  私はすう、と深呼吸をする。もう、縛られなくて済むんだ。好きなところへ出かけられる。  (しはいしゃ)から、離れられるんだ。 『私を、助けてください』  そう打ち込めば、羽ばたく蝶のスタンプが表示される。夜逃げ屋の名前のイメージなのだろうか、そう首を傾げていれば続けてメッセージが表示された。 『最低限の荷物をまとめてください。そうですね、貴重品やスマートフォンなどでしょうか。バッグがあるなら、着替えもあるといいでしょうね』  その文字を見るなり私はいそいそと布団を出て用意されていた小さな箱を開ける。雑にしまいこんだ服を取り出しては、彼が使っていたリュックを拝借して詰め込んだ。  ここに連れてこられた時に持っていた財布と、携帯の充電器。メイクポーチ。生理用品とゴミ袋。  それだけを持ってもう一度携帯に向き直る。
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