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告白
それは僕がこのベーカー街の下宿で暮らし初めて、まだ三週間と経たない頃のことだった。
雨混じりの北風が窓に吹き付ける朝の七時半、建物の微かな揺らぎを足裏に感じながら僕が画材を持って自室を出ると、まるでそれを待っていたかのように三号室の扉が開いた。現れたのは、目の下に隈を作った、僕の下宿仲間のマフィン君だった。
どうしたんだ、眠れなかったのかい? そう訊ねるや否や彼は、常日頃の恥じらいは何処へやら、真剣な顔で凄いことを言った。
「ロビンさん、付き合ってください」
僕は大いに面食らってのけぞった。その拍子に画材の箱から筆がばらばらと床に落ちた。
待ってよ、マフィン君。それってどういうことなんだ。その言い方だとまるで愛の告白みたいだけど。
ハリー・マフィン君(注/ロビンは彼の名を間違えて覚えている。本名はリーハ・マフィー)は、今年十九の医者志望の青年だ。栗色の髪に、人懐こい子犬のような優しい瞳を持った小柄な子。彼は不運にも大学進学を失敗したことをきっかけにこの下宿へ越して来た。
奇遇にも、それは僕が下宿生活を始めたのとちょうど同じ時期のこと。だから彼のことはまだあまり知らない。取り立てて詮索もしなかったし。まさかそっちのケがあるとは思わなかったな。いや、考え過ぎかな。
「マフィン君、ちょっと誤解しかけたから確認するけど」僕は筆を拾いながら言った。
「付き合うっていうのは……買い物のことだよね?」
「違いますよロビンさん」
「じゃあ、散歩か何かかい?」
「違いますよ。そんなに分かりにくかったですか? これは、僕なりの愛の告白なんです」
マフィン君はリンゴみたいに真っ赤な顔をして、急き込んで言った。
「ロビンさんはまるで雪の精みたいに綺麗な人じゃないですか。僕、ロビンさんの銀色の髪と青い瞳が幻想的で大好きなんです。それに、ロビンさんは柔らかくて素敵な話し方をするし、動物には優しいし、実は初めて会った時から心を奪われていたんです」
「あ、ありがとう」
マフィン君の勢いに圧倒されて、僕は何も言えなくなった。
しかし、妙だな。マフィン君は僕と同じように、この下宿の天使と名高い美人の大家のユウミさんにぞっこんだったはずだ。いや、「はず」も何も、僕らはあんなに彼女を取り合って大騒ぎしたじゃないか。
「ユウミさん? 嫌だなあ、僕の場合は嘘ですよ」マフィン君はケロッと言う。
「嘘って」
「ホントはロビンさんのことばかり考えていました。毎日毎日毎日。でも、そのことを知られたくなかったんです。ロビンさんは僕を警戒するだろうなって思ったので」
「まあ……そうだね」確かに絶賛警戒中だ。
「でも、僕はもうこの気持ちを抑えられないんです。お願いです。僕にはロビンさんしかいないんです。付き合ってください!」
「……いや、落ち着こうよ」
僕は前のめりになって来るマフィン君を両手で押し留めた。
「僕のことを好意的に見てくれてるのは嬉しいんだけど、恋って、ちょっとさ」
「何ですか?」
「前提がおかしいと思うんだよね……困ったな」
頭痛がする。めまいがする。これほどまでに『どうしたら良いんだ?』と途方に暮れる事態に見舞われたことはそうそうない。
眠れないほど思い悩んで、僕の良いと思う所を一生懸命に話してくれる、優しくて純朴なマフィン君を傷つけたくはない。けれどこれだけは無理だ。
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