月が月であるように

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月が月であるように

 撫でるように吹く風に、彼女は目を覚ます。そこは森の中だった。柔らかな木漏れ日が彼女の視界の中で穏やかに揺れる。こんな状況でなければ素晴らしい朝だったはずよね、と彼女は思う。右手には暗い穴の中で見つけたガラス玉。今もまだ、あの夜空と同じ色で輝いていた。  彼女は立ち上がり、あたりを見回すことにした。見渡す限りの木、木、木。時々草が舞っては(わず)かな音を立てて地面に落ちる。彼女は服をはたき、ついていた草や土を落とした。  救いを求めるように天を仰ぐと、ちぎって捨てたような雲が、透明な水色の空に浮かんでいた。そこに一筋、まだ日中だというのに星が流れていった。流れ星。彼女は夢を思い出す。私は誰と星を見ていたのだろう......。 「やあアリス」  突然正面から声がした。さっきまで何も、誰もいなかったはずの空間に猫が寝転んでいた。猫は驚く彼女を見てさらに続ける。姿勢はそのままで。 「なあ、挨拶くらいは返すべきだと思うんだけどな。 どうだ?」 「こ、こんにちは......?」  猫はギャラギャラと笑った。くじに使われる抽選器のようだと彼女は思った。 「ああ、そう。 それで良いのさ。 ところでアリス、君はアリスなんだ」  言い終わると猫は笑う。次の言葉を抽選しているのだ。 「アリスなんだ、って......どうして知っているの? 私でも私の名前を知らなかったのに」 「おや、どうしてもこうしてもあるかい。 空が空であるように、月が月であるように、それと同じように君はアリスなんだよ」  彼女は「アリス」という名前に全く覚えはなかった。ただし誰かと話すときに名前がなければ不便だということに思い至る。何より穴から落ちてきたのだからピッタリかもしれないわ、と自分を納得させる補足まで心の中で加えた。 「わかった。 私はアリス。 あなたは何て名前なの?」 「僕は猫さ。 大丈夫、名前は要らないよ。 猫で十分」  猫は揺れるような滑らかさで起き上がった。 「訳がわからないだろうから少しだけ教えてあげるよ」  アリスの脚にまとわりつくようにして猫は歩く。ゆったりとした速度で。 「何かに困ったらそのビー玉を持って願うんだ。 慣れないうちは覗き込んでも良い」 「何を願えば良いの?」 「さあ、その時に強く思ったことでも願っておけば良いんじゃないかね」 「ちょっと、それじゃ分からないわよ!」  猫はわざとらしくため息をつく。 「とにかく、ガラス玉の扱いには気をつけるんだね」  目玉をぐるりと回して猫は言った。 「それは君だけのものだし、きっとみんな欲しがるだろうから」 「それは一体どういう意味?」  さあ、と言いながら猫はゆっくりと森の奥を向いてしまう。  最後に顔だけをアリスに向け、 「他人のそれを覗くと良いことがあるんだってさ、悪趣味な話だよな」  と言った。 またギャラギャラと笑いながら猫は跳ぶ。器用に木の枝に乗ると 「また会おうぜアリス!」  と鳴いた。猫は溶けるように森の奥に消えてゆき、そこには特徴的な笑い声だけが残されていた。 「待って! まだ聞きたいことが……」  アリスの声は、森の中に響くばかりで誰かに届いた様子はなかった。
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