(二十六)ノラ子、死す

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(二十六)ノラ子、死す

「ノラ子、素敵ーーっ!」 「ねえ、ノラ子。歌ってよ、あの歌を」  大歓声が、ノラ子を感傷から呼び覚ます。観衆の興奮と熱狂も、頂点に到達する。この絶好のチャンスを、Mr口谷のサクラ軍団がみすみす逃す訳はない。さ、今だ!我らがMr口谷様の悲願を、達成するのだーーっ。と、弥が上にも盛り上げようとする。 「ノラ子、ノラ子、ノラ子」 「逝けー、我らがノラ子ーーっ」  こうなったらもう、あの歌を歌うっきゃなーーい!そりゃそうだよ、あったりまえ。よーし、歌うぞお。すっかりその気の、我らがノラ子。目一杯気合いを入れて、深呼吸。どきどき、どきどきっ……。  そっとダンボールを床に置くと、ノラ子の手にはマイク。マイクを握り締めたノラ子の口から、白い息が漏れる。 「みんなーーっ、聴いて。これで今夜、そして年明けから続けて来た、ニューイヤーコンサートツアー最後の曲になります。けれどノラ子の歌はこれで終わりじゃなくて、ノラ子の歌はこれからもずっと、続いてゆくから、ね」 「そうだ、ノラ子ーーっ」 「愛してるぜ、俺のノラ子」 「ノラ子、素敵ーーっ!」  歓声に応えて、手を振るノラ子。 「ありがとう、みんな。やがてノラ子というひとりの歌手の人生は燃え尽き、この体を失う時が来ても、ノラ子の想いは歌になって、この世界を永遠に駆け巡るの。だからいつかノラ子がこの世界からいなくなっても、死んだなんて思わないで。もう直ぐ春が巡って来るけど、春が来たら、また新しい命が生まれ来るように、ノラ子もまた新しい歌になって、生まれて来るからね。だから……ノラ子の歌は、終わらなーーいっ」  ノラ子は沈黙し、興奮を抑えるように目を瞑る。感極まったファンの中には泣き出す子、涙で目を潤ませる人もいて、あちらこちらからすすり泣く声が聴こえていた。 「ノラ子、頑張って。もう少しだよーーっ」 「これからもずっと、応援するからねーーっ」  ノラ子は目を開き、ゆっくりと観客席を見回しながら、再びマイクに向かった。 「じゃ、ラストの曲いくね。ここにいるみんなと、そしてこのダンボールに捧げます。あなたの為に、何の変哲もない平凡なダンボールの為に、ノラ子今ここで歌いたい。歌うから、聴いて下さい。それじゃ、『ダンボールの野良猫』」  大歓声が消え、ホールには静寂の帳が降りる。はーはー、はーはー、マイクを通して、ノラ子の荒い息が伝わって来る。この時既にノラ子は息苦しさを覚えつつも、必死に耐えていた。  そんなノラ子の異変を敏感に察知したのが、他でもない、この一年ずっとノラ子と二人三脚で歩んで来た響子。 「ねえ、ノラ子、大丈夫かな?ボルテージ、上がり過ぎよ」  隣りでノラ男も頷く。 「もしかして、やばいかも」  響子の顔色が、さーっと青ざめる。 「でしょ、やっぱり。このまま歌ったら、あの子」 「止めさせよう。ぼくが行って来る」  言うが早いか、舞台の袖から飛び出したノラ男。ところがステージ中央、自分へと向かって来るノラ男に気付いたノラ子は、ノラ男の目をじっと見詰めながら、けれど小さくかぶりを振った。ミー子のピアノが、イントロを奏で始める。来ないで。ノラ子の目はノラ男に向かって、そう訴えていた。  そんな。呆然と足を止め、ノラ子を見詰め返したノラ男。けれど黙って頷いた。分かったよ、きみの好きなようにやればいい。ノラ男は無言のまま、響子の許へ引き返した。  舞台の袖から、そんなノラ子とノラ男のやり取りをじっと見詰めていた響子。肩を落とし帰って来たノラ男に向かって、彼女もまた無言のまま頷いた。大丈夫よ、あの子ならきっと、最後まで歌い通すから。そしてふたりは互いの手を握り締めながら、ステージのノラ子を見守った。  だってあの子は、歌が命なんだから、歌うことが。だってあの子は、歌う為に生まれて来たパーフェクト・エンジェルなんだから。だってあの子は、わたしたちの歌姫だから。ねえ、そうでしょう、ノラ子。あなたは、わたしのノラ子だから。わたしの、ノラ子……。  ステージの中央では、眩しいスポットライトを浴びながら、ノラ子が歌い出す。降り続く雪が、ダンボールに落ちて融ける。ノラ子が見詰めているのは、ダンボールかそれとも雪か。 『わたしは野良猫  ダンボールの野良猫  今夜も膝抱え  ひとりぼっち  夢見るはあなたの面影……』  歌の歌詞にメロディに、ノラ子の今が、その一瞬一瞬が宿ってゆく。今や気力だけで声を絞り出すノラ子。どきどき、どきどきっ……。はーはー、はーはー、乱れた呼吸は限界に達し、肺は窒息寸前に至る。何も知らない観衆はただ黙って、寒さも忘れ聴き入るばかり。  どきどき、どきどきっ……。速まる鼓動、血液が逆流し、眩暈、視界がかすみ、意識がふわっと宙に浮き遠ざかる。何もかもがまっ白、丸で雪の降り頻る原っぱの風景。静かにそして、ノラ子の呼吸が途絶える。ママ、ノラ子、もう駄目みたい。ごめんね、ママ。ありがとう。どきどき、どきどきっ……、呼吸に続き、鼓動もまた停止した。  どすん。  鈍い音がノラ子のマイクを通して、ホール内に響き渡る。 「ノラ子ーーーっ」  響子の絶叫が、大観衆のそれに飲み込まれる。ダンボールを抱き締めるようにステージの床に倒れたノラ子へと、響子が駆け寄り、続いてノラ男、バンドメンバー、スタッフ……。ノラ子を照らし出していたスポットライトの灯は落とされ、ホールはまっ暗。暗闇の中にただなっ白な粉雪だけが、音もなく舞い落ちていた。 「ノラ子」 「どうしたの、ノラ子」 「ノラ子、しっかりして……」  ざわめきの中、救急車が到着。しかしその時既に、ノラ子に息はなかった。けれどノラ子の顔に苦悶の痕はなく、安らかな表情を浮かべているばかりだった。丸で冬の陽だまりの中で眠る、野良猫のように。
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