(二・一)野良猫登場

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(二・一)野良猫登場

 時は西暦一九五〇年、春。  第二次世界大戦の終戦から、五年後のことである。  とぼとぼ、とぼとぼ、何処からともなくやって来た一匹の野良猫が、東京は台東区にある原っぱに住みついたのがまだ肌寒い三月の初め。野良猫はメスで、全身白い毛で覆われ、瑠璃色の瞳は海を思わせる悲しき青の色彩でいっぱい。その野良猫がダンボールと出会ったのは、それからしばらく経ったお彼岸。それは良く晴れた、春の日の午後だった。  雪が降り積もったかと思う程白い毛の野良猫も、原っぱに辿り着いた時は泥だらけ。腹も空かしてふらふらと、今にも倒れて死んでしまいそうでならなかった。ムシャムシャムシャッと夢中で、原っぱの雑草に食らい付いて何とか飢えをしのいだ。でも痩せこけて骨と皮と毛しかない。頼る者もなく、ひとりぼっちの野良猫は、ぼんやりと空を見上げてはため息の日々。夜空の星の瞬きも、空しく涙に曇るばかりだった。  そのうちまだ寒気を含んだ春の雨が降り出し、野良猫はびしょ濡れになって、ようやく体中の泥と埃を洗い流した。ふーっ、さっぱりしたなあ、もう。けれどそう思ったのはほんの束の間。しとしとザーザー、雨は降り続き、忽ち原っぱは泥沼状態。足がぬかるんで歩き難いったら、ありゃしない。  そんな雨も徐々に徐々に弱まって、やっと晴れ間が見えてきたかと思えば、今度は風。原っぱを春の嵐が吹き荒れる。うおーっ、何だこりゃ。自慢の白い毛が逆立って、野良猫は丸で小さなライオン。勇ましく、ガオーッ、ウオーッと風に向かって吠えてはみるも、風からしたら痛くも痒くもない。逆に吹き飛ばされ、コロコロコロッと地面を転げ回る野良猫。ありゃりゃ。ふーっ、駄目だこりゃ。吠え疲れた野良猫は、草葉の陰でうとうと。午睡の間にいつしか風も止み、ふわーっと大欠伸で目を覚ませば、何とも気持ちのいい午後の陽射し。思わずもう一眠りしたくなる。  ところが見ると、ありゃ、何だこりゃ。目の前にどかっと横たわる謎の物体。誰がこんな物運んで来たのやら。そりゃ風に決まってるよって、これこそが何あろう、空っぽのダンボール箱。横っ面にはしっかりと『Dream Company』の文字が印刷されていた。けれど野良猫には、模様にしか見えない。  何だ、何だ。貴様は一体何者だあ。ガオーッ、ウオーッと勇ましく威嚇して相手の反応をじっと窺うも、残念ながら今風はピタッと止んでいるから、ダンボールは微動だもしない。ううーん、完全しかとたあ、こいつ大したやつだ。返事ぐらいしてくれたっていいだろうに。まったく、もう。  ガオーッ、ウオーッ……。しかし幾度威嚇してみても、相手はうんともすんとも沈黙の春。随分無口なやつだなあ。シャイなのか、それとも臆病者。よし、こいつ、からかってやれ、とばかり、ロンリネスも手伝って、野良猫はダンボールにじゃれ付いてゆく。爪を立て引っ掻いたり、歯で齧ったり。だけど一向に反応なし。  あっれーっ、詰まんない。こいつ、生きてんの。くんくん、くんくん匂っても黴臭いだけ。止ーめた、ばからしい。気の抜けた野良猫は、ダンボールに背中を押し付け、だらーっと凭れ掛かる。すると、おやおや、何だかふわあっとして柔らかい。それにあったかーい。もしかしてこいつ、意外といいやつかも。  にこっと笑い掛けてみる。だけどやっぱり無愛想。うん、でもちょっとシャイなだけなんだよね、きみって。さっきは、ごめん。ダンボールに付けた引っ掻き傷をぺろぺろっと舐める。うへーっ、でもやっぱし黴臭ーい。ねえねえ、きみってちょっと変わってない。改めて野良猫はダンボールの周りをぐるぐる、ぐるぐる巡回する。  ダンボールは、野良猫が背伸びしてやっと手の爪先が届く背高のっぽ。長方形で、大雑把に言うと野良猫が五匹程ごろにゃんと横になったら、もうぎゅうぎゅう詰めの押し競饅頭状態の広さ。では、上部ははて、どうなっているのかしら。よし、登ってやれ。ひょいっと野良猫は跳び上がり、ダンボールの上に見事、着地した。と思いきや、うわおーっ。足場が崩れ、野良猫はダンボールの底へまっ逆さま。  あーれーっ、なんでこーなるの、って、ダンボールの中は空っぽ。乗っかったダンボールの蓋はガムテープが剥がされており、従って野良猫の体重で下にへっこむ。こうなりゃもう重力には逆らえません、てな訳で、流石の野良猫もお付き合いで落ちてゆく定めなり。蓋は元に戻って、中は閉じられまっ暗け。  ふーっ、吃驚したなあ、もう。意地悪なんだね、きみって。てっきりもう死んだかと思ったよ、まったくもう。あー、いててて。ここは何処、地獄の一丁目かしら。きょろきょろと見渡してみても、四方ダンボールの壁。おまけに足元もダンボール。でも、居心地はそんなに悪くない。あったかいし、誰にも邪魔されない、ひとりぼっちの空間ってやつですかあ。なんて、すっかり、ゆったりのんびり、ロンリー気分を満喫する野良猫一匹だった。  気付けば陽もいつしか傾いて、ダンボールの底から上蓋の隙間を見上げれば、空には夕映え。原っぱに夜を連れて来る風が吹いているから、さっきからダンボールの上蓋がバタンバタンと倒れたり起き上がったりを繰り返していて耳障り。でもきみの中にいれば、風をよけれるから寒い季節には有難い。野良猫はますますダンボールが気に入って、仕方がなくなる。  じゃ、きみ。わたしちょっと食事してくるから、ここで大人しく待っててね。ダンボールにそう告げると、野良猫はひょいっと跳び上がり、ダンボールの外へ出た。そのまま駆け足、原っぱを駆け抜け、いつものように町の馴染みの商店街へ。だって原っぱの草だけじゃ飽きちゃうよ。野良猫は泥棒猫よろしく獲物を求め、夜の商店街を徘徊する。  一番の狙い目は、居酒屋の調理場の隅にある巨大なごみバケツ。あん中にゃ、活きのいい魚の食い残し、詰まりお宝が一杯埋まってやがんだ。くーっ、堪らない。だらーっと垂れるよだれを拭きつつ、抜き足差し足忍び足。しめしめ、板前のあんちゃんは勝手口の前で煙草ぷかぷか、油を売っていやがんぞ。よーし、今の隙に忍び込み、ごみバケツ目掛け思いっ切りダイブ。  パクリ、ムシャムシャ。あー、美味い。こりゃもういつ死んだっていい、ここは正に極楽浄土。なーんて油断したのが運の尽き。いつのまにか戻ってやがった板前のあんちゃんと目と目が合って、うーやばい。とっとと逃げなきゃ、でも時既に遅し。こんにゃろ、何してやがる、この泥棒猫めーっ。  哀れ野良猫はがばーっと首根っこつかまれ、幽霊スタイルで恨めしや。ははーん、さてはお前の仕業だな、いつも残飯漁ってやがったのは。今夜という今夜はもう容赦なんねえ、思いっ切り痛い目に遭わしてやっからな。いいか、覚悟しやがれ。てな訳で箒にて百叩きの刑。ギャーッ、止めて。後生ですから、助けて下さい、もう二度と致しませんから。幾ら懇願したところで後の祭り。お陰で野良猫は、体中傷だらけ。  よーし、今夜はこれ位で勘弁してやる。いいか、もう二度と悪さすんじゃねえぞ。野良猫はぽーんと路地に放り出された。あーあ、かっちわりーなーっ、まったく。失意の中、野良猫は足を引き摺り地を這いながら、原っぱ目指して帰路に就いた。  ところが残念、あと一歩。原っぱの目の前にあるアスファルトの道路のまん中で、力が尽きて野良猫はバタンキュー。ありゃりゃ、そんなとこで寝てたら車に轢かれて死んじゃうよ。それとも、もう死んでんの?
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