終章・我の名は――

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終章・我の名は――

 神幸祭から一週間が経った。  ナナシは光の中に消えてしまったきり、姿を見せていない。真の神となり、力を授かったのだろう。だからきっと、自分にも見えなくなってしまった。  祭りの翌朝に産土神社を訪れると、境内の空気はこれまでより澄んでいて、神の生まれ変わりを町全体が喜んでいるように感じた。 「神様はわしらの目には見えんばってん、わしらのことをいつも見ておらっしゃあ」  曾祖父がいつも言っていた言葉を噛みしめる。どこにいても、ナナシは必ず自分を見守っていてくれるだろう。それでも、寂しさはなかなか拭えない。  壱弥は、今日の午後に東京へ戻る予定だった。  いつも通り早朝に起床して、日課のジョギングへと出かける。空には、雲ひとつない青空が広がっていた。あの日もこんな青空だったと、ふと思い出す。  産土神社の境内へと続く階段を駆け上がる。一段、一段と踏みしめるたびに、なぜか気分が高揚していくのを感じていた。  階段を上りきった瞬間、境内に強い風がざぁっと吹き、思わず目を閉じる。そして風が止んで薄っすら目を開けると、先ほどまではなかった人影が現れた。 「……なんも変わっとらんやん」  その人影――本殿の前で佇んでいる子供に、壱弥は笑いながら声をかけた。  プラチナブロンドのおかっぱ頭が、こちらを振り返る。深い緑の大きな瞳は、壱弥を見て三日月の形になった。 「なんじゃ、イチヤ。我は神であるぞ」  腰に手を当てて、ナナシが胸を張る。  これは夢なのだろうか。ナナシに近づいて、その頬を軽く摘まむ。相変わらず、餅のようだった。 「いきなり、なにをするのじゃ!」 「ごめん、夢かなぁと思って」 「つねるのは己の頬であろう!お主は相変わらず不敬じゃのう」  ナナシは壱弥の手を払いのけて、自分の頬をさすりながら、ブツブツと不満の言葉を並べ立てている。   「ていうか、なんで見えるとよ」 「我は、見えなくなる“かもしれぬ”と言うただけである」 「いや普通はさ、見えなくなるもんやん?そういう流れやったしさ。あの感動を返せ、みたいになるやろ?」 「なんじゃとぉ?そもそも、我とお主は特別に所縁が深いと言うたであろう!我が真の神になっても、それは変わらぬということじゃっ!」  地団駄を踏むように、ナナシは右足を踏みしめた。この子供のような仕草は、間違いなくナナシだった。 「じゃあ何で、この数日は姿が見えんかったと?」 「眠っておった」 「は?」 「一気に神の力が流れ込んできたからのう。要は、疲労じゃ。疲労回復には、睡眠が一番なのである」 「はぁ……そうなん」    神様も疲労を感じるのか。ここにきて、新たな発見だった。  祭りの日以来、ここを訪れては寂しさを感じていた自分は、一体何だったのか。やはりナナシには、そんな情緒などなかった。 「よく寝たおかげで、我は“ぱわぁあっぷ”したぞ。本体は、この神社から離れられなくなったがのう」 「そうなんや……って、本体?」 「ふふん。思念体として、この町のなかのあらゆる場所にゆけるのじゃ。しかも同時にな。思念体ゆえに触れることは叶わぬが、我は常にこの町のすべてが見えるのじゃ」  どうだ、と言わんばかりに、壱弥の頭上まで浮き上がるナナシ。  しかしどうやら、本体でなければ食事はできないらしい。食べ物はここへ持ってくるしかなさそうだ。   「……で、無事に名前は授かったと?」 「無論じゃ」 「なんて名前?」  壱弥が尋ねると、ナナシはさらに高くまで浮き上がり、腰に手を当てた。その姿を、朝日が明るく照らす。   「我の名は、久久留農芸神(くくるのおおかみ)。この多智花町を守る産土神である」 「久久留農芸神……様」  字を聞かなくても、なぜか頭に浮かんでくる。そして、この町の産土神にぴったりの名前だと思った。 「……じゃが、お主だけは特別じゃ。これまで通り“ナナシ”と呼ぶことを許可するぞ」  確かに、その方がしっくりとくる。壱弥にとって、ナナシはいつまでもナナシだった。  ここで出会った日から、2ヶ月弱しか経っていない。それなのに、お互いのことを深く理解している。だからこそ、壱弥にはナナシの姿が見えたままなのかもしれない。 「お主は、もう東京へ戻るのじゃな」 「うん。次に来るのは、年末かな」 「両手を出すがよい」  言われた通りにすると、ナナシが壱弥の両手をしっかりと握った。もみじのような手なのに、なぜか大きく感じる。そして、とても温かかった。 「心の繋がりに、距離は関係ないぞ。我とお主の絆は、永久(とこしえ)のものなのである。離れていても、常に心はともにあるのじゃ。辛いとき、苦しいとき、なにかにつまづいて立ち上がれそうにないとき。我を思い出すがよい。お主が我を感じるとき、我もお主を感じておる。それを決して、忘れるでないぞ」  手のひらから、体のなかへと力が流れ込んでくる。  常に感謝を胸に抱いていれば、遠い場所にいたとしても、ナナシとの縁が遠ざかることはない。そのことを心に刻みつけられているようだった。  しばらくして、ナナシがゆっくりと手を離した。 「ところで、ミオを連れてくるのは、いつなのじゃ?」 「来年の春だな。澪が帰国して、ご両親に挨拶行って……それから、こっち連れてくる」  澪は、母親と弟には同棲のことを話したらしい。味方が二人できたと、嬉しそうに報告してきた。   「楽しみじゃのう。ミオは料理上手なのであろう」 「……ここには持ってこれんよ」 「なんじゃとぉ!?工夫すれば持ってこれるであろう!」  その“工夫”をするために、家族へどのように説明しろと言うのか。相変わらず、ナナシの食に対する執念は強いようだ。  神様にも、いろいろな性格があるのだろう。しかしナナシがこのような性格だからこそ、今年の夏休みは充実したものになった。  帰省してきてからのことを思い返して、思わず頬が緩む。壱弥の顔を見て、ナナシも笑った。 「よし。ジョギングの途中やけん、そろそろ行くよ。年末、また会いに来る」 「イチヤ」  踵を返した壱弥を、ナナシが呼び止める。   「冬に来るときの供物は“あまおうじぇらあと”で頼むぞ」 「覚えてたらね」  それだけ言って、階段を駆け下りた。  出会った日のように、ナナシがついてくることはない。それでも壱弥は、胸のなかにナナシの存在を確かに感じていた。  夏が終わり秋が訪れ、じき冬になる。今度この町へ帰ってきたときには、雪化粧が見られるだろうか。春はあの高台から、満開の桜を澪と一緒に眺めたい。そしてまた夏になれば、力強く輝く緑の下で汗を流そう。  傍にはいつも、いてくれるはずだ。小生意気で恋愛話が大好きで食い意地が張っている、小さな神様が。   (ナナシの神様・完)
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