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「どげんしたとね? 狐につままれたごつ顔しとるばい」
「あ、いや。ちょっと疲れとるんかな。さっき、ここに子供がおったっちゃけど。もしかしたら、本当に狐やったんかな」
「ははは、そうかもしれんたいね。あぁ、昼頃に組合の方ば顔出すて、お父さんに言っとって」
「うん、わかった」
坂本は参拝を済ませてから帰っていったが、その間もずっと壱弥の隣にいる子供の姿に気が付くことはなかった。
「ふむ、やはり我の姿は見えぬようじゃのう。本来そのはずなのじゃ。何故か、お主には見えておるようであるが」
「そんな、俺にしか見えないなんて」
「そうじゃな。我も不思議じゃ。お主、本当にヒトなのかのう?」
突然、子供が壱弥の目の高さまで浮き上がってきた。やはりなんの仕掛けもなく、完全に宙に浮いている。
子供は壱弥の周りをぐるりと一周したあと、正面からじっと顔を見つめた。大きな緑の瞳の中に、自分の顔が映っている。
それがふいに、十年前に亡くなった曾祖父の姿へと変わった。すると突然、曾祖父と一緒に毎日この神社に来ていた頃のことが脳裏に蘇る。
じいちゃん、神様は見えんって言いよったやん。壱弥が心の中で話しかけると、子供の瞳の中にいる曾祖父は微笑んで消えていった。
「ふーむ……カツキイチヤか。お主には、なにかしら感ずるところがあるのう。よし、我はお主とともにゆくぞ」
「ともにゆく?」
「立派な神になるためには、ヒトを知らねばならぬ。今はそのための期間なのじゃ。お主のそばには、ヒトがたくさんおるのが見えたぞ」
相変わらず、何を言っているのかよく分からない。
「もしかして、うちに来るってことか?」
「そうじゃ」
「ダメに決まってるだろ。大体、俺は来月末までしかこっちにいないんだぞ」
「案ずるな、食費はかからぬ。ただ、たまに味見はしたいぞ」
「そうじゃなくて」
「寝る場所もいらぬぞ。ただ、かの有名なフトンというものの魔力は確認しておきたいぞ」
「だから、そういう心配をしているわけじゃなくて」
そう返したものの、壱弥には半ば諦めに似た気持ちがこみ上げていた。
信じられない出来事の連続だが、実際に目の前で起こっているのだ。受け入れるほかない。それに、そうしろと曾祖父が言っているような気もした。
「……お前、名前は?」
ため息まじりに尋ねると、子供は着地して腰に手を当てた。
「我は名無しである」
「ナナシ? 変な名前だな」
「“名無し”だと言うておるであろう。我の名は、千年神幸祭で授けられるのじゃ」
「神幸祭って、この神社で毎年やってるあれか?」
この神社では毎年九月中旬に、産土神に感謝を伝えるための祭りが行われている。壱弥も、物心つく前から参加していた。
「そうじゃ。今年は千年に一度の特別な祭りなのであるぞ」
「祭りの時に名前を授けられるって……祭の日までは、名前がないのか?」
「うむ。名を授かることで、真の神となるのである」
「でもそれまで名前がないなんて、不便だな」
「そのまま、名無しと呼べばよかろう」
「ナナシ……」
呼んでみると、妙にしっくりくる気がする。そして何故か、懐かしさに似たものを感じた。
「なんじゃ、イチヤ」
「いや、呼べって言ったけん」
ナナシは壱弥を見つめた後、 嬉しそうに頷いた。
「というわけで、家に帰るぞ、イチヤ」
「いや、まだ走っとる途中やけん」
「なんじゃと?」
「あと十キロ」
「なんじゃとぉ?」
ナナシが顔を歪ませる。本人は神様だというが、壱弥には“少し生意気な普通の子供”にしか見えなかった。
「ついてくるって言ったっちゃけん、ちゃんとついてこいよ」
言い終わらないうちに、壱弥は階段を駆け下りはじめる。
空には、雲ひとつない。今日も暑くなりそうだ。そしてなんとなく、空の青がいつもより濃いように見えた。
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