悠久の祭儀

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 祭りが近づくなかでも、ナナシとの生活は変わらなかった。  毎朝一緒にジョギングをして、畑を耕し、幼馴染や町の人たちと語らい、食事やデザートをこっそりと分け与え、同じ部屋で眠る。ただ、以前のようにナナシがひとりでどこかへ行くことはない。常に壱弥のそばにいる。  壱弥は、自分が小さかった頃の話や東京での生活など、いろいろなことをナナシに話した。 「お主、童のときから面倒くさがりなのじゃのう」 「そう簡単に性格は変わらんて」 「そうじゃの。お主の性根は、ずっと変わっておらぬ」  まるで、生まれたときから壱弥のことを見てきたような物言いだ。いや、もしかすると本当に見てきたのかもしれない。  こうしてナナシと言葉を交わすたびに、心が満たされる。そして、絆が一層深まっていくような気がした。  立派な神となるために人間を知らなければならない。出会ったとき、ナナシはそう言っていた。自分を通じて、この町のさまざまな人間を見ていたのだろう。  ナナシがどうすれば真の神になれるのかは分からない。しかし人間を知ることが重要なのであれば、たくさん会話をして、自分が今まで見てきたことや感じてきたことを伝えたいと思った。 「お主の魂は、まこと気高いのう」  あるとき、ナナシがぽつりと言った。 「イチヤ。お主と話しておると、与えられた生を精一杯全うしようという、強い想いを感じるのじゃ。我はお主のような気高き魂を守るために、この町へ産み落とされたのじゃな」  与えられた生を全うしたい。そんな想いがあるのは、曾祖父の生き様を見てきたからだろう。  過酷な戦場を生き抜いた曾祖父。その意味を、ずっと考えてきたはずだ。生き残ったことに苦しみを抱えながら、それでも直向きに生きてきた。その魂が、壱弥へと受け継がれている。  自分の役割は、受け継いだ魂をさらに次の世代へとつなげること。この世界の命は、そんな風に流れていくのだろうと思った。  そしてついに、神幸祭当日を迎える。 「美しいのう」  日課の早朝ジョギングをしていると、横を飛びながらナナシが言った。その目は閉じられている。 「本当に、綺麗だな」  目の前に広がる、青と緑。これが多智花町の色だ。自分が生まれ育ってきた、大好きな町の色だった。ふいに、その色が滲む。なぜか胸がいっぱいになってきて、壱弥は汗とともに目元を拭った。  今日は、産土神社には寄らなかった。それ以外はいつもと同じルートを走り、帰宅する。それからシャワーを浴びて、祭りへ向かう支度をはじめた。 「びしっと決まっておるのう」  ネクタイを締める壱弥の姿を見て、ナナシがいつもの調子で言った。神幸祭は町の大切な行事なので、参列者の服装もかしこまっている。  ナナシは何も変わっていない。祭りが始まれば、変化が出てくるのだろうか。  神幸祭で産土神へ供える神饌は、毎年町内の農家が持ち回りで準備していた。そして今年の茶は、香月茶園から出す。偶然とは思えない。やはりナナシとは、深い縁があるのだろう。  献上する茶を持って、父とともに産土神社へ徒歩で向かう。ナナシは黙って、壱弥の横を歩いていた。  午前十時。宮司が祓詞を唱えはじめ、参列者の身を清める修祓が始まる。壱弥の心は不思議と落ち着いていて、修祓によってさらに清廉なものになっていくのを感じていた。  本殿の扉が静かに開かれる。しかしそこにはいま、神はいない。隣では、ナナシが本殿をじっと見つめている。代表者が、神へと捧げる供物をひとつずつ祭壇へと供えはじめた。  それから宮司による祝詞の奏上がはじまり、参列者はその声にじっと耳を傾けた。祝詞の内容など、これまで細かく気にしたことはない。しかし今日は、その意味が手に取るように理解できる。多智花町の歴史、そして町を守ってきた産土神への感謝の言葉だ。それが言霊として、境内に満ちていくのを感じた。 「イチヤ」  ナナシの声が聞こえた。いや、聞こえたのではない。頭のなかに響いてきた。思わず隣に目を向けるが、いつの間にか姿が消えている。 「分かったぞ。祭りに必要な“特別なあいてむ”とは、お主自身であった」  姿は見えない。しかし、確かに感じる。ナナシの存在を。   「産土神と深くつながり絆を深めたヒト。そこからは、無限の(えにし)が広がる。我が真の神になるため必要だったのは……イチヤ、お主なのじゃ」  突然、辺りをあたたかい光が包み込んだ。神社や人の姿が消える。しかし、神楽を舞う子供たちの声だけは聞こえてきた。  ぼんやりと、ナナシの姿が光の中心に浮かび上がる。子供のようなあどけない顔は、いつもと変わらない。しかしナナシのなかで、何かが目覚めようとしているのが分かった。   「ありがとう、イチヤ。お主と過ごした日々、まこと有意義であったぞ。我の宝物じゃ」  壱弥はナナシに呼びかけようとしたが、声が出ない。光の中に、その姿が溶け込んでいく。そしてそのまま、本殿へと吸い込まれた。  気がつくと、神楽は終わっていた。役目を全うした子供たちが、満足そうな表情を浮かべている。神饌を下げ、本殿の扉は再び閉められた。  他の人間に、あの光は見えていなかったらしい。まるで自分だけが、別の場所にいたような感覚だ。  声が出なかったのは、思わず別れの言葉を口にしようとしたからなのかもしれない。そんな言葉は、必要なかった。ナナシはいなくなったわけではない。その証拠に、この境内からはナナシの気配をはっきりと感じる。 「こっちこそ、ありがとう」  心のなかで言ったつもりが、小さく声に出していた。隣の父が怪訝な表情を向けてきたが、壱弥はナナシがふんぞり返っている姿を見た気がした。
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