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神様、またあした
産土神社の階段を上っていく、二人の小さな子供。夏の暑さにも負けず、軽い足取りで跳ねるように石段を上る。まるで羽が生えているようだと思った。
「こらぁ、幸弥!ひとりで行かんとよ!」
「ぼくが一番乗りするっちゃけん!」
「咲那も幸弥も、ちゃんと前を見んと怪我するぞー」
元気が良すぎる我が子達に声をかけて、壱弥は隣を歩く澪の腰に手を添えた。
「澪、大丈夫?」
「ありがとう、壱弥くん」
澪は大きくなった腹をさすりながら、差し出された壱弥の手を取る。すると、それを見た咲那と幸弥が階段を駆け下りてきた。
「はい、ママ!」
幸弥が澪のもう片方の手を取り、更に幸弥の空いた手を咲那が握る。その様子を見て、壱弥は目を細めた。
九年前に結婚して、澪と協力しつつ、てんやわんやしながら子育てをしてきた。これまでやってきたことが正解かどうかは、まだ分からない。
しかし自分の両親と祖父母、そして幼馴染達や杏など、たくさんの人が近くにいる。
昭人と結婚して東京にいる夏芽も、年二回は必ず帰省して子供達を可愛がってくれた。
ラグビーのトップ選手として活躍している颯太は、オフの度に大量のお土産とともに帰ってきて、叔父バカっぷりを発揮している。
夫婦二人だけではない。たくさんの人、そしてこの町のおかげで、咲那と幸弥は真っ直ぐ育っているのだと壱弥は思った。
「ちょうどいい運動になるわぁ、この階段。臨月になったら運動しなさい!って言われるけんね」
さすがに三人目ともなると、澪の表情にも余裕がある。
縁もゆかりもない土地に嫁いで寂しい思いをさせないか心配だったが、すぐにこの田舎町にも慣れて、今ではすっかり方言も板についた。
どうやら、東京よりもこちらの空気の方が体に合っているらしい。結婚後は、更に穏やかになったと感じる。
「ママ、腰痛くない?痛かったら、ちゃんとあたしに言ってね」
今年から小学生になった長女の咲那は自分を“あたし”と呼ぶようになり、一気に言動が大人びてきた。
もうひとり家族が増えるから、自分がしっかりしなければと思っているらしい。澪に似ているのか、料理の腕もいいようだ。
「ぼくねぇ、今日ねぇ、ハンバーグ食べたい」
長男の幸弥は四歳になったばかりで、かなり甘えん坊で泣き虫だ。
しかし最近は地元のラグビースクールで楕円球に親しんでいるので、少しずつ泣くことが減ってきた。そして少々気が弱いものの、誰に対しても優しく接してくれる。
「今日も賑やかじゃのう」
どこからかナナシの声が聞こえた。姿は見えない。返事をする代わりに、壱弥は小さく頷いた。
境内に到着すると、奥の本殿からナナシが出てきて拝殿に寝そべった。毎日顔を合わせているものの、この姿を見ると妙にホッとする。
「神様、おはようございます!香月咲那です!」
「ざいます!香月幸弥です!」
「今日もよく来たのう。サナにユキヤ」
境内の木々がざわざわと揺れた。声が聞こえなくても、それが神様の返事だと子供達は感じているようだ。
「ミオのお腹の子も順調じゃな」
おかげさまで、と心の中で返すと、ナナシは満足げな笑顔を浮かべた。
毎朝の参拝は、結婚して父親になってからも続けている。次第に澪や子供達もついてくるようになり、今ではそれが日課となっていた。家族がいる時は声を出してナナシと会話をすることは出来ないが、ナナシは子供たちの成長を見るのが楽しいらしい。
咲那と幸弥が、拝殿に向かって二度礼をして手を叩く。参拝の仕方も、ずいぶんと板に付いてきた。
「ママが無事に、出産できますように!」
「ぼくの弟が産まれますように!」
「もう、幸弥。弟とは限らんっちゃけん」
「ぼくは弟がいいと!」
「ワガママ!」
「こら、二人とも。静かにお参りせんと、神様がお願い聞いてくれんよ」
壱弥が窘めると、咲那と幸弥は背筋を伸ばし、真剣な表情で手を合わせた。
ナナシが立ち上がって、両手をかざす。いつものことだが、どういう意味があるのかはよく分からない。ただ何となく体の内側が温かくなるので、所謂“神様のご利益”なのだろうと思っている。
「ねぇパパ。本当にここに神様がおると?」
手を合わせ終わって、幸弥が首を傾げた。
「うん、ちゃんとおるよ」
「でも一度も見たことないっちゃけど」
「この風も木も、川や田んぼも神様だよ。毎日見とるやろ?」
幸弥は目をぱちくりさせながら頷く。
神様の姿は見えない。そう教わってきたが、壱弥には見えた。だから“見えない”と言うのは嘘になるし、たとえ他の人に見えなくても、そう言いたくはなかった。
「神様って、たくさんおると?」
今度は咲那が首を傾げる。
「うん。たくさんおるよ。やけん、どこにおっても咲那と幸弥を見守ってくれとる」
「えー!神様って、すごいね!」
「すっごいね!」
咲那と幸弥の言葉に、ナナシは当然だと言わんばかりの表情で胸を張る。“久久留農芸神”となって十年以上経つが、こういうところは相変わらずだ。
というより名前がついただけで、何ひとつ変わっていない。相変わらず食いしん坊で、人間の恋愛話が大好きだった。そしてこの神社も、昔から変わらず澄んだ空気のまま。
だから悩んだり大変なことがあったりしても、ここに来れば心が落ち着くし、ナナシと会話をしているうちに自然と道が見えてくる。
産土神社とナナシの存在は、壱弥にとって心の拠り所だった。
「イチヤ」
参拝を終えて帰ろうとすると、ナナシに呼び止められた。
「後で“まんごおぜりぃ”を頼んだぞ。昨日、オチュウゲンで大量に届いたであろう。我は知っておるぞ」
本当に目ざとい。苦笑しつつ、家族には見えないように軽く手を上げた。
「神様、お邪魔しました!またあした!」
階段を下りて鳥居をくぐると、咲那と幸弥が声をそろえて言った。
「うむ。また明日な」
空から降ってくる声が聞こえたのは、自分だけ。それでも子供達は感じているだろう。この町を見守る、小さな神様の存在を。
「ねぇママー!産まれてくるのって、あたしの弟?妹?」
「ふふ、ママも分からんとよ。産まれてからのお楽しみやけんね」
「あたし、どっちでも可愛がるけん!」
「ぼくも!」
「幸弥、さっきは弟がいいって言いよったやん!」
「どっちでも、お世話するもん!ぼく、お兄さんになるっちゃけん!」
もう少しすれば、新しい家族も一緒に、この神社を訪れることになる。
神様の好物が“マンゴーゼリー”と“あまおうジェラート”だということは、三人の子供達にちゃんと教えておかなければならない。
家族の明るい笑い声を聴きながら、壱弥はそんなことを考えていた。
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