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平和の象徴
目が覚めると、ナナシはすでに起きていた。というより、寝ていないのかもしれない。
壱弥が借りてきた本を熱心に読んでいたので、電気を消していいものか迷っていると、自分で手元だけの灯りを作って読むと言ったので気にせず消灯した。
そのまま朝まで熟睡していたので、寝ている間のナナシの行動は分からない。
「イチヤは健康的じゃのう」
ナナシは、日課の早朝ジョギングについてきた。
壱弥に伴走しているように見えるが、足は地についていない。時折、壱弥の目の高さまで浮き上がっては景色を見回している。
昨日と同じように産土神社に寄り、一息つくことにした。
「神様って、睡眠とるの?」
「無論じゃ。ヒトのように長くはとらぬがの」
「ふーん。そういや、昨日ここで何してたわけ?」
壱弥がここを訪れたとき、ナナシは境内に向かってじっと立っていたのだ。
「声を聴いておったのじゃ」
「声?」
「この町の声じゃ。我は産み落とされたばかりで、知らぬことが多い。まずはこの町の木々のざわめき、川のせせらぎ、小鳥のさえずり、あらゆる声を聴かねばならぬ。その中に、どこか懐かしさを感じる声が聴こえた。そのとき、イチヤが現れたのじゃ」
自分とナナシの間には、一体どのような縁があるのだろうか。
出会ってから丸一日しか経っていないが、ずっと昔から共にいたような感覚もある。
「我が真の神になるために、お主はとても重要な存在であるようじゃ」
「そんなこと言われてもな。普通の大学生なんですけど」
「それでよいのであろう。普通でな」
そう言ってナナシが笑うと、心地よい風が木々を揺らした。
それから十キロ走っている間、ナナシはたまに目を閉じながら飛んでいた。また町の声を聴いていたのだろうか。
どんな声なのか、少しだけ聴いてみたいと壱弥は思った。
帰宅後、特に予定もないので読書の続きをしていると、正午前に希穂が訪ねてきた。
「ほら、これ」
部屋に入るなり、希穂は持っていた紙袋から何かを取り出した。濃いグレーに少し大きめの麻の葉繋ぎの柄が個性的な浴衣だった。
「いっちゃん用に、作っとったっちゃん。いい柄の布を見つけたけん」
「すごいな、相変わらず」
希穂は服を作るのが趣味で、たまに壱弥のも作ってくれている。
希穂が着ているノースリーブのワンピースも、自分で作ったものだろう。大きなひまわりの柄で、明るい顔の希穂によく似合っていた。
「明日、これ着てね」
「明日?」
「八月五日!」
「あ、そっか。明日、筑後川か」
「いっちゃん、毎年それ言いよる」
毎年八月五日に開催される、筑後川花火大会のことだった。幼馴染や友人と一緒に行くのが恒例になっている。
そういえば、昨年行ったときに浴衣を作るという話をしていたような気がする。
「自分の浴衣も作ったん?」
「うん、もちろん」
「どんなの?」
「それは、当日のお楽しみたい。いま見せたら減るやん」
「なにが」
「トキメキが!」
そう言って悪戯っぽく笑う顔は、やはり子供のころのままだ。
希穂は紙袋から帯をいくつか取り出し、浴衣と壱弥を交互に見ながら悩み始めた。
「うーん、帯はこれかなぁ。サイズ確認したいけん、ちょっと着てみて。あ、ちゃんと服脱いでからね」
希穂がテーブルに浴衣と角帯を置いたので、言われる通り壱弥はTシャツを脱いだ。
「ちょっと、目の前でいきなり脱がんでよね。デリカシーないっちゃけん」
「じゃあ、後ろ向いとってください」
「はいはい」
部屋着をすべて脱ぎ、手早く浴衣を着込んだ。面倒なので、帯は貝の口ではなく浪人流しで結ぶ。
着終わって声をかけると、希穂は振り返り満面の笑みを浮かべた。
「うん、似合っとる。いっちゃんは顔が綺麗だから、柄物でもくどく見えんね」
「いま見てよかったと?」
「なにを?」
「俺の浴衣姿。減るんやないの、トキメキ」
「減らんよぉ。いっちゃんは、何度見てもかっこいいけん」
どう反応すればいいのか一瞬戸惑ったが、希穂の背後でナナシが笑みを浮かべているのが目に入り、どこか苦々しい気持ちが込み上げてきた。
「いっちゃん、ちょっと痩せたやろ」
「よう分かるね」
「でも、大丈夫かな。詰めんでもよさそう」
サイズを確認するために、希穂が壱弥の身体のあちこちを触ってきた。
毎度のことなので特に気にしていないのだが、その様子をナナシがにやにやとしながら眺めている。
サイズ調整は必要なかったので、浴衣と帯を置いて希穂が帰ると、ナナシが妙に嬉しそうな顔で話しかけてきた。
「若さとは、よいものじゃのう」
「なに年寄りくさいこと言ってんだよ」
「キホは、イチヤのことを好いておるのじゃな」
「幼馴染だからね」
それとなくはぐらかしたのを察したのか、ナナシはつまらなそうに口をとがらせる。
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