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1. 高田馬場
「どうかされましたか?」
黄緑色の電車が走り去った高田馬場駅のホームで、順子は若い女性に声をかけた。
東京都心を廻る山手線。誰もが足早に改札へ向かう黄昏時の駅で、普段なら他人にそんな声をかけたりはしない。
けれど、順子より三十は若いだろうその女性が、思い詰めた様子で遠ざかる電車を見つめていたので、そのまま横を通り過ぎることができなかったのだ。
「あの、電車に忘れものでも?」
口元を覆う女性の手が、小刻みに揺れている。小春日和の夕方に、寒くて震えているわけではないだろう。彼女は涙目で順子を見ると、低い声でつぶやいた。
「赤ちゃん……」
「えっ?」
「わたし、赤ちゃん忘れて……電車、降りました……」
予想外の答えに、言葉を失う。
赤ちゃんを電車に忘れた? 座席に? 足元に? 想像を巡らす順子の横を、ベビーカーを押しながら若い夫婦が通り過ぎた。
「あぁ、どうしよう……っ」
ベビーカーを目で追った女性が、歪めた顔をうつむける。化粧っ気のないまぶたから、乾燥した頬に涙が流れた。
「ベビーカーに乗せた赤ちゃんをさっきの電車に忘れて、自分だけ降りてしまった、ってこと……ですか?」
順子が聞くと、彼女は小さく頷き、うなだれたまま固まってしまった。
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