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 寝苦しい真夏の深夜だった。窓を開け放していても、湿気とぬるい空気が循環するだけで、ちっとも涼しくはない。恭親はまどろみの中から覚醒し、ぼんやりと天井を眺めた。薄い月明かりが妙に不気味だった。  目が覚めてしまうと、喉の渇きが意識された。布団から起き上がり、炊事場へ水を飲みに行くか迷っていると、不意に悪寒が走って首元に鳥肌が立った。 「……!」  恭親はとっさに自分の体を激しくさすった。ぞわぞわと皮膚に気色の悪い感覚がまとわりついている。一瞬混乱に陥ったが、すぐに悪寒の正体に見当をつけた。 (呪力の気配?……)  濁った汚水にも似た呪力が窓の外から漂ってきている。しかし呪念のものとは少し違うようだった。表し方が難しかったが、容器に閉じ込めた臭気が蓋を開けたことによって溢れ出したような、奇妙な気配だった。  恭親は部屋から出て、呪力が流れてくるほうへ向かった。出元は屋敷の北側、古い蔵がいくつか建てられている空き敷地らしかった。寝静まった廊下を明かりもつけず、幽霊のように歩いた。  やがて縁側まで出て来たが、角度的に蔵の様子をうかがうことが難しかった。恭親はいったん家屋内に戻り、近場の角部屋の窓から外を眺めた。すると、遠目に見える蔵のひとつに、数人が集まっているのが見えた。古株の使用人たちと、その中に混じって挾嶌がいた。  何をやっているんだろう、と思っているうちに、蔵の中からさらに数人、使用人が現れた。全員がかりで何やら大きな荷物を運び出している。麻布で粗雑に包まれた荷物だった。呪力はその荷物、というより、荷物が保管されていたらしき蔵のほうから流れてきているようだった。使用人たちは重たげに荷を地面へ下ろした。  挾嶌がかがんで麻布を広げる。浅黒い物体が夜天のもとへ晒された。 (何だろう? あれは……)  恭親は目を凝らした。さっと雲が晴れて、強い月明かりに照らし出され、そして数秒後、恐怖の這い上ってきた口元を両手で押さえた。  麻布に包まれていたのは人間だった。しかも、どう見たとしても、死体だった。生命の気配がない。枯木のように痩せ細った老人の遺体だった。浅黒く見えたのは、垢に覆われた皮膚のせいだった。恭親は思わず息を止めた。異臭がここまで漂ってくるようだった。  しばらくすると、手袋をはめた使用人のひとりが、死体を検分し始めた。脚を少し持ち上げる。その様子から恭親は目を逸らすことができなかった。恐ろしさで、微動だにできなかった。  検分は続けられている。そのまま食い入るように見つめていると、遺体の片脚が奇妙に折れ曲がっていることに気が付いた。膝のところからその先が、変な方向へ曲がっている。 「おい」  そのとき、突如背後から刺してきた声に、恭親は悲鳴をこらえて振り返った。部屋の入口のところに敬周が立っていた。平静な様子で、こちらを見つめている。 「……」  混乱を抱えながら、恭親は何も言えなかった。第一声として何を言うべきかが分からなかった。すると沈黙の中、敬周が一瞬窓の外へ目線をやった。その動作だけで、恭親は察した。 (敬周は、"あれ"が何なのか知ってるんだ) 「あの死体は、誰なんだ?」  小刻みに震える手を口元から引き剥がし、恭親は尋ねた。敬周の目が細められる。冷めた表情だった。軽蔑の眼差しだった。 「……どうしてお前はそう、恥知らずなんだ」  唇はほとんど動かさず、くぐもった声でそう呟いた。恭親には聞き取れなかった。 「え?」 「あれはお祖父様だ。俺たちの祖父で、父様の父親だった男だ。ついさっき、くたばったみたいだがな」 「?……」  足元へ投げ出すような説明に、恭親はますます困惑した。敬周の言ったことを飲み込めなかった。なぜなら、 (祖父は、俺たちが生まれる前に死んだはずじゃあ?……)  挾嶌が当主を継ぐのと同時に亡くなり、遺体は葬られたはずだと聞いている。蔵からその肉体が出てくるのはおかしい。首を傾げる恭親の様子に、苛々しながら敬周が言った。 「お前、凡百の祓い屋だった天玄院が、なぜ四極にまで登り詰めることができたのか、何も知らないんだな」  そして叩きつけるように話し始めた。 「天玄院はな、もともと呪力量の弱い祓い屋一族だったんだ。でも野心はどこよりも(たぎ)らせていた。それで平安時代の末期から禁術の研究にのめり込み始めて、ある儀式に着手したのが室町時代だった。足利義満の治世の頃だ」 「あ、ある儀式?」 「人柱を立てて、一族を強化する儀式だ」  人差し指を下向けて、地下を示した。 「一族の人間をひとり、幽閉するんだ。座敷牢に枷で繋いで、外界との接触は一切絶つ。そのまま数日も経てば、人柱にされた人間は精神が壊れ始める。そうなるとどうなると思う」 「……?」 「壊れた精神から溢れた呪力は行き場を失って、土地の中で循環し始めるんだよ。呪力が淀んで、淀みの中心にいる人柱は疑似呪念のような存在になる。即身仏みたいなものだ。あとはこれを繰り返す。先代の人柱が死ねば、次の人柱を一族から選んで同じように幽閉する。成果が出て来たのが江戸時代だった。歴代の人柱から抽出した呪力が蓄積されて、天玄院全体の呪力量も上がり始めた」  敬周はそこでいったん息を吐いた。恭親は瞳を泳がせた。まったく初耳の話すぎて、咀嚼ができていなかった。静けさが場を支配する。敬周がまた忌々しげに目を細めた。 「……これくらいのこと、家の中枢にいる人間なら皆知ってることだ。知らないのはお前くらいのものだ」  そう言って、急激に口元を歪めさせ、恭親のそばまで走ってくると胸ぐらを荒々しく掴み上げた。突然のことに恭親は驚いて固まった。激しい嫌悪をたたえた弟の瞳と、間近で目が合った。  敬周は一息に吐き捨てた。 「俺はお前が嫌いだ、目障りなんだよ、無知を恥じることもなく能天気に生きやがって、もう少し大家の一員である意識を持ったらどうなんだ!? 卑屈なわりに自分を貶めきることもできていない、世間知らずの穀潰しが、この先まともな生活が待ってるとでも思ってんのか、次の"ハシラ"はお前だぞ!」  熱湯を浴びせられたようだった。恭親はハクハクと口を開閉させた。言葉もなかった。はあっ、と敬周が息をつく。恭親は自分の心臓が早鐘のように鳴っているのを感じた。 「は、"ハシラ"って……」  それでも、やっとのことでそれだけ言った。敬周が上目遣いの三白眼でこちらを睨みつける。地獄の使者のような声音で宣告した。 「……天玄院家の人柱の、通称だ」  どっ、と恭親の全身から汗が噴き出た。血の気が引いていくのが自分で分かった。自らの蒼白な顔面が、瞼の裏でちらつくようだった。  敬周が乱暴に恭親の襟口から手を離した。 「自分の息子を廃人にするなんて、それくらいのこと、父様は平気でやるぞ。なんせ、父親が当主の座を退くのを渋ったからって、その脚を叩き折って歩けないようにして、"ハシラ"の身に沈めたんだからな」  劇烈な怖気に恭親は襲われた。以前目にした、祖母を叩き倒した父の姿が鮮烈に思い出された。それでも、なんとか抵抗したくて、弱々しい反論を口にした。 「でも、そんな、おぞましいこと、組合は容認してるのか? 下手すれば、祓い屋資格だって剥奪されるだろう……」 「馬鹿か、家の外に情報が漏れないよう、統制されてるに決まってるだろうが。祖父が"ハシラ"になったのだって、対外的には事故死ってことで処理されてるんだよ」  舌打ちし、敬周は部屋の出入り口に向かって歩いて行った。襖に手をかけ、開いた瞳孔で恭親を見やる。 「"ハシラ"のこと、教えてやっただけ感謝しろよ。せいぜい残りの生活を楽しむんだな、盆暗が」  ピシャリと襖が閉じられた。外界と隔絶されたようだった。恭親はもう一度、窓の外に目を向けた。ちょうど祖父の遺体がどこかへ運ばれていくところだった。燃やすのか、埋めるのか、それともそれ以外の方法があるのか、これから遺体を処理するのだろうと思われた。  恭親はその場にへたり込んだ。  薄い雲の膜がふたたび張られて、夜闇がいっそう濃くなった。生暖かい風が部屋の中を撫でる。恭親は口元を手で押さえた。胃液が喉元へせり上がってきた。 「……うっ」  えずきそうになるのを懸命にこらえた。体をくの字に曲げて、痙攣しそうなのを必死に耐える。細い悲鳴のような吐息が指の隙間から漏れた。  それでも、がたつく肉体とは対照的に、冴えた思考が脳を貫いた。 (……俺は、馬鹿だ)  なんと浅はかだったのか、という茫然とした心地に埋め尽くされ、恭親はうずくまった。自分自身に呆れ果てた。敬周が当主になれば家を出られるなどと、呑気に構えていたこれまでの自分が、可愛らしくさえ思えた。  大家の人間である自覚を持てと、先刻怒鳴り散らしていた敬周の言葉がよみがえった。 (どんなに能力のない人間でも、利用価値があるんだ、この家では)  "ハシラ"の存在は、中枢の一族ならば皆知っているとも言っていた。なぜ今まで教えてもらえなかったのかなどと、咄嗟にそんなことを考えてしまう自分がさらに子供じみて思えた。 (何でも人にやってもらえるなんて、そんな期待、馬鹿がすることなんだ。……自分の無知を自分で挽回する努力をしなかった、俺は……)  自業自得だ、と責め立てる声がした。大家の人間である自覚を持て、大家の人間である自覚を持てと、頭の中でこだまする。天玄院家という、熾烈な蠱毒(こどく)の中に生まれ落ちてしまった、己の運命にまったく無頓着だった愚かさだけが、激しい火傷のように浮き彫りとなった。 (……あ)  そのとき、唐突に思い出した。以前、親戚の集まりに来ていた大叔父のことだ。当主の座に就けない恭親を見て、こう言った。  ……悲惨なことだ。 (――あの人は、気付いていたんだ)  恭親が人柱になる(さだめ)であることを、予感していたのだ。きっとほかの一族たちだって思っていたはずだ。  次の"ハシラ"は、あいつだと。  本当に、何も知らないのは、自分だけだった。 「……はあ、はあ、はあ、はあっ、はあっ」  恭親は過呼吸に陥った。胸を押さえる。空気がうまく体内へ入っていかないような感じがした。呼吸はしているのに、苦しい。  朦朧としそうな頭の中で、ついさっき目にした祖父の姿が映し出された。  汚らしく垢に覆われ、痩せこけた鼠のようなあの姿。  あの場所に堕ちれば、もうおよそ人らしい暮らしは望めないのだ。 (――嫌だ)  はっきりと、その思いだけが心臓を切り裂いた。 (嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)  足掻きたい、今からでも、あんなふうになるのは嫌だ、回避したい、どんな手を使ってでも――  激情が恭親の内部から溢れ出した。  涙が大量に滴り落ちて、畳を濡らした。恭親はその上に突っ伏した。声も立てずに嗚咽した。そうしていると、自分が本物の幽霊になったような気がした。  天上の雲はますます厚くなり、月明かりは完全に消えた。闇が恭親の存在を塗り潰す。天玄院家の屋敷も、その中に息づく人々の姿も塗り潰す。闇が全てを覆い隠す。  この先に待ち受ける運命を、誰にも予測はさせないというように。
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