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五
襖を外して繋げた大広間に、親戚筋の人間が集まっている。それぞれがところどころで会話や挨拶を交わしているので、がやがやと騒がしい。恭親は俯いて手持ち無沙汰に湯呑の茶を飲んだ。さっきからそんなことを繰り返しているので、手元の飲み物ばかりが減っていっていた。当主系譜の人間のために用意された上座の席が居心地悪かった。
今日は天玄院の血筋の人間が集まる会合の日だった。それぞれの家で抱えている仕事の塩梅を報告しあったり、界隈の情勢について意見や情報を交換したりと、固い話題も多い集まりだったが、半分は宴会の様相だった。大人たちは皆酒や料理を片手にしたまま広間を行き交っていた。恭親と同年代の従兄弟や再従兄弟たちも固まって、料理や菓子をつまんでいる。けれど恭親はそこから外れて、独りぽつねんと座っていた。
「緋影、というのは君か」
ざわめきの一角からそんな声が聞こえてきて、恭親は顔を上げた。料理を黙々と食べていた緋影に叔父が話しかけている。
緋影が箸を置いて笑顔を作った。
「はい、お初にお目にかかります」
「いやあ、聞いたよ。甲斐の子息を吹っ飛ばしたそうじゃないか……」
「お恥ずかしい話です。あのときは、呪力操作を誤りまして」
「ははは、しかし結果的にここ数年のいざこざを片付けることができた。君のような祓い人がいれば、天玄院もしばらく安泰だろう」
「恐れ入ります」
叔父は緋影の隣に腰を下ろし、酒を勧めていた。ずいぶん馴れ馴れしい様子だった。
(緋影さんが分家の出身だから、下に見てるのか……)
恭親は足をあぐらの形に崩して、うなだれた。叔父の振る舞いに不愉快さを感じていた。しかしあの中へ割って入る度胸はとてもなかった。
「恭親」
鋭い声が飛んできた。父、挾嶌の声だった。恭親は起き上がった。開け放たれた襖のところで、挾嶌と、到着したばかりらしい大叔父が杖をついて立っている。恭親が生まれる前に死んだ、祖父の弟だ。最後に会ったのは物心つくかつかないかくらいの頃だった。それから腰を悪くしたと聞いていたので、今回の集まりにかかる移動も体にこたえたのだろうと思われた。少し疲れているようだった。
大叔父のそばで、敬周がすでに何やら挨拶していた。相変わらずそつのない弟だと思った。
挾嶌が顎を上げて恭親にこちらへ来るよう示した。
「大叔父様だ。お前も挨拶しろ」
恭親は重たい体を立ち上がらせた。最近、急激に身長が伸びてきているので、骨がみしみしと軋んだ。のそりと親戚たちのあいだを歩いて、大叔父のところまで行く。それからゆっくり頭を垂れた。
「お久しぶりです。長男の恭親です」
「……」
大叔父は何も返事をしなかった。白い髭に覆われた口をかすかに開け閉めするような気配は漏れている。落ちくぼんだ目で恭親の顔を凝視していた。神経が悪くなっているのか、杖を握る手が細かく震えているのに恭親は気付いた。
「大叔父様、席までご案内します」
敬周がそう声をかけたが、大叔父はぐぐ、と腰を曲げて俯き、しばらくしてから「……いらん」と答えた。
「挾嶌、ちょっと来てくれ」
広間の向こうから声がかかった。挾嶌はそちらに足を向けながら、「敬周、お前も来い」と弟を連れ立たせた。あとに残された恭親は、大叔父を置いていったほうがいいのか、相手をしたほうがいいのか、決めかねていた。大叔父は相変わらず腰を曲げた格好のままで、しかしその手の震えは徐々に治まりつつあった。そのとき、不意に、恭親は大叔父が挾嶌のことを恐れていたのだということに思い至った。
挾嶌が当主の座につくにあたって、一族のあいだでおそろしく揉めたらしいというのは、逸話のような形で今も語り継がれていた。若かった挾嶌は気性が荒く、退くことを拒んでいた当時の当主――実の父親相手に、流血沙汰すら起こしたということだった。ほとんど奪い取るようにして挾嶌が当主に成り上がったのと、前当主が不慮の事故で死んだのが同時で、一応継ぎ目争いは幕を下ろしたのだが、今恭親といる、この大叔父を始めとして、年嵩の一族たちはその後挾嶌との関わりを避けるようになったのだと、噂として恭親も聞いていた。
大叔父が長く息をついた。落ち着いた手で杖を握り直す。
「……お前は、いくつになった」
そして唐突に、そう口を開いた。掠れた声だったので聞き取り辛かった。恭親は少し身をかがめて答えた。
「中等部の、二年になりました」
「……跡を継ぐのは、弟か」
敬周のほうへぎょろりと視線を向けてそう訊いてきた。ずいぶん直球な、と思わないでもなかったが、こういった扱いに恭親は慣れつつあった。
落ち着いて答えた。
「……ほとんど確実に、そうなります。俺には、祓い屋をやれる能力はありません」
緩慢な動きで、大叔父がまたこちらを見た。恭親の瞳の奥、脳髄まで見通そうとするかのように、強く覗き込んでいた。長らくそうしていたが、ぼそぼそと口元をうごめかせて、やがて細く言った。
「……悲惨なことだ」
同情のような、何か不吉なものを恐れるような、複雑な声音だった。恭親は少し困惑した。何と返したものか、と迷っているうちに、大叔父が疲れ切った様子で呟いた。
「席に、案内しろ」
「は、はい」
恭親は大叔父の背に手を添えて歩き出した。視界の端に、緋影と叔父がまだ話しているのが映る。大叔父を座らせたあと、自分の席には戻らず、恭親は広間を出た。
夜の気配の立ち込める縁側に立って、障子を閉めてしまうと、一族たちの声も遠のいた。このまま黙って自室に帰ってしまおうか、と恭親は考えた。
(俺がいなくても、何も困るようなことはないだろう……)
広い庭のあちこちから虫の歌が聞こえた。短い秋が過ぎ去ろうとしている季節だった。羽織るものを持ってこなかったので、冷気が少し身に沁みた。恭親はその場にうずくまった。思考するのも面倒だった。
指先が冷えてきた。どれくらいそうしていたか、遠くから、尾を引く叫び声のようなものが漂ってきているのに気付いた。
恭親は顔を上げた。ひいいい……ひいいい……と、悲鳴のような、怒り声のような、老人の声だった。
離れに住んでいる、祖母の声だと思った。
恭親の祖母は、息子である挾嶌と非常に折り合いが悪く、本邸の隣に建てられた離れで、ほとんど幽閉に近い暮らしを送っていた。同じ敷地に住んでいても、恭親自身、祖母と顔を合わすことは滅多になかった。その祖母も最近は呆けが進んでいるらしく、ときおりこうやって訳の分からない叫び声を発することも増えていた。今ごろ離れの中では、世話係の使用人が祖母をなだめているだろうと思われた。
しかし声は一向に途切れる気配を見せず、いつまでも耳障りに細く響いていた。それが恭親には、何か凶兆のようなものに感じられた。
学習院の授業が終わり、帰途につくため恭親は学舎を出た。ほかにも自邸へ帰っていく生徒たちは多かったが、誰も恭親に興味を示したりはしなかった。中等部に上がってしばらく経ったころから、特に何をしたわけでもなかったが、恭親に絡んでくる同級生はいなくなっていった。単に飽きたんだろうな、と恭親は思っていた。それに、中等部くらいの年にもなれば、皆家の運営に携わらなければならなくもなってくる。落ちこぼれの同級生へのいじめに割ける意識もなくなったのだと予想できた。
学習院の敷地を出ようとするところまで来ると、先を行く生徒たちが門の陰あたりをちらちらうかがっていっているのに気が付いた。少し訝しみながら恭親も門を通り過ぎたのだが、そこにいた人物の姿を認めて思わず立ち止まった。
「緋影さん」
門の外に立っていたのは緋影だった。恭親の声に気付いて、読んでいた文庫本から顔を上げた。にっこり笑ってみせる。
「お疲れさまです。坊っちゃん」
「どうしたんですか、こんなところで」
「たまたま仕事で近くまで来たものですから。せっかくなので、お迎えに上がりました」
さ、帰りましょう。と恭親を促す。周りで生徒たちがさざめいているのが、ひしひしと伝わってきた。
羽矢緋影だ……。
天玄院の?
そう。
甲斐家とやり合ったとかいう、有名人だよ……。
こそこそ交わされている話し声を、知らん振りしているのか、本当に聞こえていないのか、緋影は恭親を振り向きながら歩き始めた。恭親もゆっくり足を踏み出して、そのあとを追った。
緋影は現在、祓い屋の世界で急速に名前が知られつつあった。契機となったのは、数ヶ月前に起こった甲斐家との鍔競り合いだった。天玄院が長らく担当していた古参の客のひとりを、甲斐が自家へ引き込もうとしていた真っ最中、その客が手違いで甲斐と天玄院の両方に二重依頼を飛ばしてしまったのだ。それで現場に着いてみれば、両家が鉢合わせしてしまったというわけである。
このとき天玄院側の祓い人として赴いていたのが緋影だった。
甲斐家は以前から天玄院の客をひそかに獲っていたのだが、この隠蔽に一役買っていたのが谷津ケ宮家だった。しかし谷津ケ宮は去年の暮れあたりから跡継ぎの相続で細かい揉め事が頻発しており、今回の二重依頼を調整するところまで手を回せなかったのだった。結果として、甲斐の横取り行為が明らかとなった。
恭親も直接その場にいたわけではないので、聞いた話にはなるのだが、先に祓呪にかかっていたのは甲斐だったそうだ。担当していたのは甲斐家の三男で、しかし祓いきる前に緋影に踏み込まれた。緋影は即座に割り込む形で呪念を祓い、このとき飛び散った呪力を浴びて、甲斐家の三男は禍障を負った。禍障というのは、呪念や呪力によって負わされた怪我や病状一般のことである。
この一件で、ずいぶんややこしいことになってしまった。組合の鬼子が何人も飛んできて早速調停に入った。甲斐の子息に禍障を与えたほどの小競り合いとなれば、さすがの組合も顔面蒼白になろうかという具合だったが、当の緋影はあっけらかんとしたものだった。
「呪念だけを狙ったつもりだったんですがねえ。私の術が未熟なもので、そばにいらっしゃった甲斐様にも当たってしまいました。いやあ、申し訳ないことです」
あっはっは、と組合の聞き取りに対して笑ってみせたそうである。結果としては、他家の客を盗み取っていた甲斐の落ち度と差し引きゼロということで、この件は落ち着くことになった。
このころ、緋影が挾嶌と交わしていた会話を、恭親はたまたま聞いた。
調停が終わり、組合が引き上げてすぐのことだった。恭親が挾嶌の書斎の前を通りがかったところ、中から緋影と話す声が聞こえてきたのだ。
「緋影、お前、本当にただの過失だったのか」
咄嗟に、恭親は書斎の扉に寄って聞き耳を立ててしまった。緋影の明るい返答がした。
「はて、何のお話でしょう?」
「すっとぼけるな、甲斐の息子に禍障を負わせたことだ。お前ほどのやつが、呪念を狙い損ねるはずがない」
「それはそれは……買い被りというものでございますよ、挾嶌様。あのときは私も焦っておりましてねえ、手元が狂ってしまいました」
けらけらと緋影が笑った。しばらく黙っていた挾嶌だったが、不意に低い笑い声を漏れさせた。面白そうに口元を歪めている表情が目に浮かんだ。
「あくまで道化になるか? 緋影」
挾嶌が椅子に深く背を預ける気配がした。
「甲斐にだけ落ち度をつけて、今後いいように使ってやるという手もあったがな。俺はそういったやり方はまどろっこしくてやってられん。わかりやすく灸を据えてやろうと腸煮えくり返していたところだったが……」
クックッ、とまた挾嶌が笑った。
「……お前、俺の意を汲んだつもりか? やはり、使える奴だ」
「あらまあ、フフ。恐縮でございます」
父が緋影のことをずいぶん気に入っているのは、傍目でも明らかだった。父は有能な人間を非常に好んでいた。恭親は足音を立てないよう書斎から離れて、自室へ向かった。
「恭親坊っちゃん」
はっ、と恭親は我に返った。帰り道を行く恭親の隣で、緋影がこちらを見上げていた。
「ずいぶん背がお伸びになられましたねえ、坊っちゃん」
そう言って手を掲げて、自分と恭親の背丈を測り合う仕草をする。確かに、恭親の背は今や緋影を大きく飛び越していた。恭親は頭をかいた。
「そうですね……毎日伸びているような気がします」
「フフフ、挾嶌様が高身長な方ですからねえ。坊っちゃんも、まだまだ成長なさるかもしれませんねえ」
「それも少し、困りますね……。今も、制服の裾がまた合わなくなってきているので……」
恭親は自分のスラックスを示した。緋影が微笑ましげに目を細める。
「あら、ほんとう。お屋敷に着いたら、緋影が裾直しいたしますね」
「え、そんな……」
恭親は少し口ごもった。
「……そこまでは、甘えられないです。緋影さんだって、仕事帰りでしょう。休んでください」
「フフ。大丈夫ですよ、やらせてくださいな」
そう言って、鼻歌なんかを歌い出した。緋影はずいぶんと機嫌が良いようだったが、対して恭親は気を揉むような心地を抱えていた。緋影はいつも笑みを浮かべていて、不満なんぞ何もないというような顔をしていたが、だからこそ緋影が本当はどういう心境でいるのか、はっきりと捉えられないことに恭親は漠然とした不安を感じていた。
(緋影さんは、本当は……)
日々難度の高い依頼をこなして疲れているんじゃないか、天玄院の家に仕えることを嫌だと思っているんじゃないか、そんなことばかりが恭親は気がかりだった。二年ほど前、屋敷の玄関先で緋影に抱き締められたときの記憶が瘡蓋のようにこびりついていて、心配だった。
「……」
ぼんやりと緋影の横顔を眺めた。不意に、緋影がこちらを振り返る。反射的に恭親は目を逸らした。
「そういえば坊っちゃん、先日の一般教科考査では、たいへん良い成績だったそうじゃないですか」
「あ、ああ……」
学習院の廊下に貼り出された成績上位者の名簿を思い出す。確かに、恭親は学年で二番目だった。けれど喜びはなかった。壁に浮いている自分の名前を見ても、得られたものは味気ない虚しさのみだった。
少し俯いて呟いた。
「……座学だけが出来たって、意味はないですから……」
「そんなことはありませんよ」
即座に否定され、思いがけず恭親は面食らった。緋影がこちらを覗き込んでいた。口元は微笑んでいたが、瞳は真っ直ぐに真剣だった。
「誰にでも出来ることではありません。坊っちゃんはご立派ですよ。少なくとも、緋影はそう思っております」
ぐっ、と胸が詰まったようになった。恭親はまた俯いた。勉学なんて、自分にとっては、他に取り組めるものがないから、惰性でやっているだけのことだと恭親は思っていた。それを、こんな風に言ってもらえるとは……。
「あ、ありがとう、ございます……」
やっとの思いでそう言った。緋影がにっこりと笑いかけてきた。二人でまた横並びになって、歩き出す。恭親はぼんやりと考えた。
(敬周が次期当主になると正式に決まったら、家を出よう)
家を出て、一般の学校に通って、一般の職に就いて、祓い屋の世界には関わらない。緋影さえいれば、天玄院の家でどんな生き方をすることになったとしても構わないなどと思っていた、幼いころの将来像を自嘲した。
(俺がいつまでもいたら、きっと邪魔になってしまう)
緋影はこの先も、もしかしたら今よりももっと、天玄院を支える祓い人として重宝されるはずだ。忙しい日々を過ごしていくことになるだろう。けれど恭親が屋敷にいるあいだは、きっと自分のことを気にかけてくれるはずだと思えた。だからこそ家を離れようと思った。
(緋影さんまで、俺のほうへ引き込むわけにはいかないから……)
風が吹いて、緋影が寒そうに首を竦める。その後は恭親も緋影も、特に口を開くことなく屋敷まで歩いた。けれど静かな帰路が、恭親には居心地良かった。
「では、ご都合よいときに制服をお持ちくださいね。遠慮はご不要ですよ」
屋敷に着くと、緋影が裾直しの件をもう一度恭親に約束させて、二人はそれぞれの自室に向かうため別れた。恭親の部屋は玄関から離れて奥のほうに置かれている。そこに向かって長い廊下を歩いていると、突然背後から悲鳴が響いた。
思わず驚いて振り返る。数歩あとに通り過ぎた横道の廊下から、老婆がよろよろと歩み出てきた。あまりに久々にその姿を見たので、一瞬誰だか分からなかったのだが、その老婆は離れにいるはずの祖母だった。
「あああ、ああああ……」
ぶるぶる震えながら恭親のことを凝視している。異様な表情だった。恭親は困惑しつつ、祖母に声をかけた。
「お、お祖母様、どうされましたか……」
「挾嶌ぁ!」
唾を吐き散らしながら祖母が叫んだ。変わらず目を見開いていて、恭親のことを射抜くようだ。よたつきながらこちらへやって来る。飛びかかられて、殴られでもするのではないかと恭親は身構えたが、祖母は手の届く範囲までは近寄ろうとはしなかった。ひゅー、ひゅー、と歯の隙間から荒い息が漏れていて、老人特有の臭気がした。
「挾嶌、お前、よくもぉ、ち、父親に何をしたか、わかっとるのかぁ。この、鬼畜生めがぁ」
挾嶌ぁ、挾嶌ぁ、と祖母は何度も叫んだ。しかし祖母が一体何を言っているのか理解できず、恭親は混乱した。それでも少し考えて、気付いた。
(俺と、挾嶌を、混同しているんだ)
恭親は慌てて、祖母に語りかけた。
「お祖母様、落ち着いてください。俺は、父ではありません。孫の恭親です……」
「なんだ、騒がしい」
突然、そばの襖が開いて、挾嶌が現れた。恭親はそれにも驚いて固まった。挾嶌は不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。一瞬恭親と目が合ったが、すぐにそばの祖母に気が付いてそちらへ注意を向けた。すっ、と熱湯が急速に冷めるように表情が消えた。
「何をやってる、こんなところで」
喉元に刃を突きつけるごとき声だった。恭親のこめかみを冷や汗が流れた。祖母のほうを見ると、先ほどまでの様子とは打って変わって、押し黙っていた。口をもごつかせて、涎が垂れている。
そのまま少し経った。
「……何をやってるのかと聞いているだろうが」
挾嶌は明らかに苛ついていた。祖母の体が激しく震えだし、失禁した。その瞬間、挾嶌は前に大きく踏み出し、祖母の横っ面を叩いた。
手心など全く感じられない勢いの暴力だった。ぎゃ、と不様な悲鳴を上げて、祖母は床に転がった。老人の脆い骨ならば、折れたのではないかと思えるほどの倒れ込みようだった。恭親は戦慄した。人は、他人に対してここまで率直に腕力を振るえるものなのだろうか、と思った。ましてや相手は実の母親である。祖母は床にうずくまったまま、声も立てずに弱くうごめいていた。
「申し訳ございません、旦那様!」
静まり返っていた恭親たちのあいだに、使用人が二人飛び込んできた。祖母の世話係についている者たちだった。何度も頭を下げながら切実な詫びを述べた。
「申し訳ございません、申し訳ございません、少し目を離した隙に、本邸へ入られてしまいまして……」
「即刻、離れに連れて行け。ここの掃除も忘れるな。いいな」
斬り捨てるようにそう言って、挾嶌はさっさと去っていった。その背中にも頭を下げて、使用人は恭親に向き直った。
「坊っちゃんにも、ご迷惑をおかけいたしまして……」
「え、いえ、そんな。大丈夫ですから」
使用人たちは恐縮しきったように縮こまりながら、祖母を連れて行ったり清掃道具を取りに行ったりと動き始めた。恭親は少しまごつきながらも、とりあえず自室に足を向けてその場を離れた。
歩きながら、父に対する恐怖心をなんとか拭うように制服の腕をこすった。
(あの様子では、噂もあながち誇張ではないのかもしれない……)
当主の座を譲ろうとしなかった祖父に激昂して、流血するほどの怪我を負わせたという話だ。ここ最近、背丈が伸びてきたことが要因か、恭親は以前ほど挾嶌に脅威を感じなくなっていた。しかしつい先ほどの一幕で、恭親は昔の自分に引き戻された。
苛烈な父のもとに生まれてしまったという事実が、恭親の身に重くのしかかっていた。
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