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六
開けた窓から春の陽気が注ぎ込まれている。ここ数日、どんどんと気温が上昇してきているため、いまだ冬仕様の部屋着が少し暑かった。箪笥を開けて、浴衣を引っ張り出さなければとぼんやり考えた。
自室の畳に寝転びながら、恭親は片手に持った紙切れを眺めた。学習院中等部の修了証と成績表である。座学はまずまず、というか、客観的に見てもかなり良い出来だったが、一方で祓呪演習の項目に目を移せば、ほとんど最低点に近い有様だった。それも当然か、と恭親は息を吐いた。学期の最後のほうなど、もはや投げやりになっていて、出席はしていたものの演習の授業などまともにこなしていなかった。恭親は証書たちを床に放り投げ、頭の下で手を組んだ。
(こんなこと、いつまで続くのだろう。俺に祓呪の勉強なんかさせたって、意味はないのに)
演習の時間になると、さぼってしまおうか、という考えがいつも頭をよぎっていたのだが、生来真面目な性格が引っかかって、踏ん切りがつかなかった。誰かが言ってくれればいいのに、と恭親は思っていた。もう演習の授業は受けなくていい、祓い人になるための勉強などやめてしまえ、と。誰かが指図してくれれば楽になるのにと思った。
「恭親坊っちゃん」
部屋の外から名前を呼ばれた。緋影の声だ、と気付いた瞬間、恭親は慌てて起き上がった。返事をしようとして、床に散らばった証書とだらしなく緩んだ部屋着の合わせが目に留まった。急いで証書は引き出しにしまい、合わせを整えながら答えた。
「は、はい」
「緋影です、入ってもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
襖を引き開けて緋影が現れた。手に荷物を持っていて、それを恭親に渡してきた。
「高等部の制服でございますよ。先ほど届きましたので、お持ちいたしました」
「あ、ありがとうございます」
恭親は制服を受け取り、そそくさと部屋の隅にやった。緋影のほうを振り返ると、何をしているのか、退出せずに畳に座ってニコニコしている。用が済んで、出て行く様子はない。恭親も思わず正座して、多少困惑しつつ訊いた。
「えっと、まだ何か……?」
「あら、新しい制服を着たお姿、緋影に見せてくださらないのですか?」
さも心外だというように、困り眉にしてみせてくる。恭親は気恥ずかしさで頬を紅潮させた。
「いや、それは……俺ももう、子供じゃないですし……」
「まあ、そんな寂しいこと、おっしゃらないでくださいな。進級された坊っちゃんのお姿、拝見させていただきたいです」
ね、お願いいたします。と身を乗り出しながらねだってくる。恭親は猫背になって縮こまった。緋影からこういうふうに迫られると、断れなかった。
観念したように言った。
「じゃあ……着替えます」
「ありがとうございます、坊っちゃん」
口角を綺麗に上げて、緋影が微笑む。部屋の外へいったん出てもらって、恭親は制服に手早く着替えた。
「あの、終わりました」
「失礼いたしますね」
開けた襖からひょこりと顔をのぞかせて、緋影がこちらをうかがってきた。恭親は照れ隠しに視線をあさっての方向へ向けた。
「まあ、よくお似合いですよ。ご立派な学生さんでございますねえ、とっても精悍で」
「ほ、褒めすぎだと思います……」
「そんなことはありませんよ」
機嫌良さげに緋影が恭親の肩へ手を添えた。そのまま制服の腕を軽く撫でる。はた、と気付いたように眉を上げた。
「あら、少し丈が長いようですねえ?」
「ちょうどの丈で仕立ててしまったら、どうせあとで足りなくなるので……」
「フフ、なるほどでございますね」
目を細めて、恭親の顔を見上げてきた。恭親の身長は今でも伸びていて、緋影との目線の差は開く一方になっていた。そのことに恭親は少し、心もとなさのようなものを感じていた。
「ありがとうございました、坊っちゃん。お手間をいただきまして、ごめんなさいね」
しばらくすると、満足したのか、緋影はあっさり部屋から退出していった。嵐のあとに残されたような恭親は、自分の体に熱がこもっているのが、春の陽気のせいなのか何なのか、よく分からなかった。
高等部の学期が始まって少し経ったころ、挾嶌に呼び出された。
書斎まで来い、と。
夕食前の時間で、恭親は緊張の面持ちで父のもとへ向かった。こんなふうに呼ばれることは滅多にない。一体何の話だろうかとぐるぐる考えながら書斎の前まで来て、深呼吸した。それから伺いを立てた。
「失礼します」
「入れ」
襖を開けると、中に敬周もいた。椅子に座った挾嶌がこちらへ来るよう視線で示す。恭親は敬周の隣まで行った。横目で弟のほうをうかがう。凛々しい顔つきの敬周は、年々母親の直江に似てきていて、中性的で綺麗な面立ちが目立っていた。
「来週受ける予定の依頼を、敬周に任せる」
前置きもせずに挾嶌が言った。面食らった恭親の横で、敬周が落ち着き払った様子で「わかりました」と答えた。こうなることは想定内、というような態度だった。
「供として緋影をつける。詳細は追って緋影から聞け。何か質問はあるか」
「いいえ」
恭親をよそに、二人だけで簡潔なやりとりを終わらせてしまった。混乱しながら閉口していると、挾嶌がこちらへ目を向けてきた。
「恭親」
「は、はい」
「お前もついて行け、いいな」
「え」
なぜ? という問いかけを発する間もなく、挾嶌は「話は終わりだ、二人とも戻れ」と命じてきた。敬周がまた従順に「はい」と返事をする。理由を聞き出したかった恭親にしても、父に食い下がる度胸はなかった。大人しく書斎をあとにした。
「お前、情けないと思わないのか」
廊下を歩いてしばらく行ったところで、唐突に敬周が言った。恭親は少し驚いて背筋を伸ばし、聞き返した。
「え、な、何が……?」
敬周が顔をしかめて舌打ちする。恭親の理解の悪さに嫌気が差しているときの態度だった。恭親はとりあえず考えを巡らせてみた。
「情けないって言われても……敬周のほうが祓呪の力は上なんだから、敬周が仕事を請け負うことになるのは当然だろう……」
「違えよ」
苛つきが頂点に達しつつあるのか、敬周が荒い言葉遣いになり、また舌打ちした。
「お前、俺の仕事について行けと言われた意味、理解していないだろう。それだけ脳味噌の程度が低くて、自分が情けなくないのかって聞いてんだよ」
はあ、と激しい溜め息をついて続ける。
「いいか、父様がお前も呼んだのはな、分からせるためだよ。次の当主になるのは俺だ」
一方的に吐き捨てて、敬周はさっさと歩いていってしまった。恭親は平手打ちを食らったように廊下に立ち止まり、その背中を呆然と見つめた。
(……敬周が当主を継ぐなんて、そんなこと……)
自分はもう、とっくに弁えているのに。恭親はうなだれた。早く解放されたい、という漠然とした思いが、改めて立ち込める霧のように意識された。
「準備はよろしいですか、敬周坊っちゃん」
朝の玄関先で緋影が言った。薄手の羽織をはおった敬周が「ああ」と返事をする。その後ろで、恭親は手持ち無沙汰に突っ立っていた。
「本日、依頼先まではお車で向かいます。何度か依頼をいただいているお客様ですので、詳しいお話などは抜きに、到着次第とりかかってよろしいと」
「分かった」
颯爽と敬周が外へ出て行く。それを見送って、緋影がこちらを振り返った。
「恭親坊っちゃんも、どうぞ」
「は、はい」
促され、慌てて玄関から出た。敬周はもうずいぶん先に行っている。最後に緋影が来て、恭親の後ろを歩いてきた。
「緊張なさってますか? 坊っちゃん」
そうして優しい口調で問いかけてきた。恭親は戸惑いの混じる声で答えた。
「どう、なんでしょう……わかりません」
「フフフ。大丈夫でございますよ、緋影がついておりますゆえ」
にっこりと、いつもと変わらない様子で笑う。俺のことを気遣ってくれているのだ、と恭親は思った。思ったその瞬間に、自分の情けなさが急激に意識されて、恭親は俯いた。
使用人の運転する車に二時間ほど乗って、郊外にある、高級住宅街に入った。その一角に依頼人の自宅があるということである。迷うことなくその家まで辿り着き、車から降りると敬周が呟いた。
「二階だな」
確かに、建物の上部から呪念の気配がした。門の外についている呼び鈴を押すと、通話口から初老の女性の声がした。
「天玄院さんですね。門は開いてますので、どうぞお入りください」
言われた通り門を開けて、敷地に入った。よく手入れされた庭が目を引く、立派な洋館が待ち構えていた。
「お越しいただいてありがとうございます、さあどうぞ」
玄関から先ほど応対してくれたらしき婦人が出てきて、恭親たちを招き入れた。それから少し恐縮したように頭を下げる。
「すみません。今日、主人は仕事でして……」
「まあ、それはそれは。お忙しいところお邪魔してしまい、申し訳ありません」
緋影がにこやかに応答する。婦人はまた頭を下げた。
「ご挨拶できず、お詫びしてくれと」
「とんでもございません。いつもご依頼いただいて、私どもも泉様には感謝しております。――さて、さっそく祓呪にかかってもよろしいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
婦人は一階のリビングに残り、恭親と敬周と緋影の三人で二階へ上がった。その途中、敬周がぼそりと言った。
「手は出すなよ、緋影」
「はい。承知いたしております」
緋影が慇懃に頷いてみせる。二人のあとに続いて、恭親は押し黙っていた。
開放的だった一階部分とは異なり、二階には部屋が多かった。どの扉もぴったりと閉じられている。しかし敬周は逡巡もせずに真っ直ぐ歩いていって、そのうちのひとつを開いた。敬周の肩越しに、中にいた呪念が恭親の視界へ飛び込んできた。
「!」
ぎくりと恭親の顔が強張る。同時に、緋影が恭親の前へ割り込んできた。そのあいだ、敬周はというと、躊躇なく部屋の中に足を踏み入れていた。呪念がこちらを見る。
学習院の演習で使うよりも、強力な気配を発している呪念だった。柳のような姿をしている。垂れた枝葉の部分に目がいくつかついていて、ぎょろぎょろと周りを忙しなくうかがっていた。部屋の床に根と思われるものを下ろして、深く食い込ませている。
「……雑魚だな」
呪念と相対した敬周はそう呟いて、片手を掲げた。その瞬間、呪念がぴたりと動きを止めて、
キュキュキュキュキュ
という奇妙な音を立てながらあっという間に体を細く捻じらせた。撚り糸のようになった呪念は即座に力を奪われて、蒸発した。数秒の出来事だった。恭親は呆気に取られた。
完璧な祓呪だった。時間もかけず、呪力操作にも無駄がない。敬周のほうを見ると、特に疲れた様子などもなかった。こちらを振り向き、緋影に顎を上げてみせた。
「終わったぞ」
「見事でございました、敬周坊っちゃん。それでは、帰りましょうか」
緋影がパチパチと拍手して、敬周を労う。初仕事の感慨などもなく、敬周は羽織を翻らせて一階へ向かった。そのあとを緋影と追いながら、恭親は安堵に近い心情を噛み締めていた。
(良かった……これなら、敬周が家を継ぐのは確実だ)
正式に跡取りとして発表されるのはいつだろうか。おそらく、敬周が学習院の高等部に上がったあたりだろう。それなら年齢の区切りも良いし、今からの一年で敬周に場数を踏ませて、地場を固めていく計画なのだと思われた。
前を行く弟の背中は、もう一端の祓い人だった。恭親はその後ろを、足音も立てずに静かに歩いた。
梅雨に入ってしばらく経ったころだった。その日は土砂降りの雨が降っていた。ごおごおと轟くような雨音が朝からずっと続いていて、学習院も臨時休校を決定した。早帰りすることになった生徒たちの中には、自家に連絡して使用人の迎えを待つ者も多かったが、恭親はそういうふうに使用人を頼ることが苦手だった。敬周がいれば、車を呼んで一緒に帰ることにもなっただろうが、敬周は今日学習院を休んでいた。敬周を指名した依頼があり、そちらへ向かったのである。恭親は傘を差し、自分で歩いて帰ることにした。
激しい雨の中帰路を過ぎ行き、屋敷の玄関に入ると、脱いだ革靴をひっくり返した。中に入り込んでいた雨水が滴り落ちる。足元はずぶ濡れだった。このまま廊下へ上がるわけにもいかないな、と思っていると、たまたま使用人のひとりが通りがかった。
「恭親坊っちゃん? どうされたんですか、こんなお時間に……」
「学習院が臨時休校になったもので。帰ってきました」
「まあまあ、でしたら、ご連絡くだされば迎えの者を寄越しましたのに」
「いえ、帰れないほどの雨ではなかったですから。ああでも、手拭いだけ取ってきていただいていいですか? 足元を拭きたくて」
使用人から受け取った手拭いで足を拭いて、恭親は自室へ向かった。制服も湿気でじっとりと濡れている。早く部屋着に着替えようと思った。
その途中。
「――次の当主は、敬周にする」
恭親は立ち止まった。確かにそう聞こえた。父の声だった。
足音を忍ばせて、声のした方へ向かった。辿り着いたのは両親の居室だった。襖のそばで息を潜めて、中の様子をうかがった。
「正式な発表は、いつ頃なさいますか」
直江がそう尋ねる声も耳に入った。ほかに人の気配はなく、両親だけで話しているようである。
少し息を吐く動作をはさんで、挾嶌が答えた。
「敬周が高等部へ上がったと同時におこなう」
かしこまりました、と直江が静かに言った。恭親は自分の肩から力が抜けていくのを感じた。
泉邸での依頼を受けて以降、敬周は精力的に仕事を請け負っていた。まだ未成年であることを考慮して、付き添いの使用人を同伴させてはいたが、全ての依頼において祓呪は敬周のみが負っていた。手際が非常に良いため、すぐに得意先の客を獲得し、最近など芋蔓式に指名が増えていた。高等部に上がればさらに安定して祓い人としての地位を築いていくだろうと思われた。
なくなったんだ、と恭親は思った。
(この家に、俺がいる理由はなくなった)
安堵はもちろんあった。ずっと望んでいたことがやっと叶った、達成感のようなものもあった。しかしそれと同時に、拍子抜けとでも言うのか、自分で予想していたよりもずいぶんあっさりと事態が動いてしまったことに対する落胆と言うのか、要するに――
(――まだ、自分が存在できる余地があると、期待していたのか? 俺は……)
恭親は自分の胸を押さえて自嘲した。思いがけず、自らの本心に触れてしまった。今までずっと、跡を継ぐのは弟だ、自分は日陰の道を行くのだ、などと卑屈にうそぶいていたが、いざそうなってみれば、まだ諦めきれていない往生際の悪さと相対することになった。
浅ましい、と恭親は己を叱咤した。
(甘ったれるな。力のない人間が安穏と存在することを許されるほど、易しい家じゃないんだ、ここは……)
とにもかくにも、跡継ぎの重圧からは解放されたのだ。これからは、家を出てからの生活を想定して過ごす必要がある。一般の学舎に通うなら勉学はもちろん、どこの学校のどの学科を選ぶのかなど、色々と調べなければならない。それに天玄院から金銭的援助が見込めないことになれば、自分で働く必要も出てくる。外の世界を知らない自分にきちんとした就労ができるのか、一抹の不安はあったが、こればかりはやるしかない。
恭親は拳を握った。指先が少し震えていた。甘ったれるな、ともう一度、心の中で言い聞かせた。それから、足音を立てないよう、そっとその場を離れて、自室へ向かった。
――恭親がいなくなってからも、両親の居室は沈黙に包まれていた。挾嶌も直江も、長く口を閉じていたが、やがて機密書を差し出すように、直江が尋ねた。
「恭親は、どうするのですか」
挾嶌は一呼吸置いた。躊躇の息ではなかった。決定事項を宣言するための前置きだった。淡々とした、厳格な裁定を下す声音で言った。
「恭親は――次の"ハシラ"にする」
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