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 敷地の裏口から誰にも見つからないように屋敷へ入り、天玄院(てんげんいん)恭親(やすちか)はほっと息をついた。授業が終わったあと、学習院から足早に帰ってきて、今は誰とも顔を会わせたくなかった。  勝手口と繋がっている炊事場の隅で膝を抱えて座り込む。奥のほうから使用人の声が聞こえるのだ。いなくなるまで待つことにした。  頬が鈍く痛みを発している。手を添えて、泣きそうになるのをぐっと堪えた。同じ学級にいる、曲輪(くるわ)という名の児童に殴られた傷だった。 (我慢しないと、我慢しないと……)  呪文のように心の中で唱えていると、使用人の声が遠ざかって消えた。恭親は立ち上がり、そっと炊事場を出た。  目的の部屋までは、裏口から行けば廊下の角を二回曲がるだけですぐ辿り着く。自室には寄らず、学習院の制服のまま、真っ直ぐ向かうことにした。しかし、途中で家の者とすれ違うので、恭親はその度に手近な部屋へ引っ込んでやり過ごした。こんな顔になっているのを見つかれば、どんな噂の種になるか分からない。それでなくても、父に知られればきっと叱責を受けるだろうと思った。  天玄院家の長男が、そんなことでどうする。これ以上家に泥を塗る気か。とかなんとか。  使用人が行ってしまったあと、恭親はそろりと隠れていた部屋から抜けて、あとは足音を立てないよう走った。それでも背負った鞄の内で文房具ががちゃがちゃと鳴っていたが、かまわないと思った。  目指す場所はすぐそこだ。もう、見えている。 「はあ、はあ」  閉められた襖の前で、静かに呼吸を整えた。ふう、とひとつ深呼吸して、中の人物に声をかける。 「緋影(ひかげ)さん、入ってもいいですか」  はーい、と返事が聞こえた。恭親は襖をそっと開けて、中に滑り込んだ。 「あら、恭親坊っちゃん。いらっしゃい」  自室の机で書き物をしていた女――羽矢(はや)緋影(ひかげ)がこちらを振り向いて、にっこり笑った。恭親は自分の体が安堵の熱に包まれたのを感じた。 「あらまあ、どうしたんですか。そのお顔」  緋影が口元に手を当てて少し驚いた様子をみせる。恭親の頬を指しているのだ。恭親はぱっと俯いた。安堵の熱から、羞恥の熱へ変わっていくのを感じた。  緋影が柔らかく微笑んだ。 「また、お友達にいじめられてしまったんですねえ」 「……」 「ちょっと待っててくださいね。冷やすものを取ってきますから」  ぽんぽん、と恭親の肩を撫でて、緋影は室外へ出て行った。ひとり残された部屋で、恭親は座り込んだ。 「少し赤くなってますけど、そんなにひどくはないですよ。すぐ治ります」  よく冷えた手拭いを恭親の頬に当てながら、緋影が言った。恭親はこくりと頷いた。上目遣いに緋影の顔をうかがう。にっこり笑んだ緋影と目が合った。  その瞬間、涙がこぼれそうになった。緋影の手に添えて、手拭いをそっと外す。 「もう、大丈夫です」 「あらそうですか?」 「……いつものやつ、やってもいいですか?」 「フフ、ええもちろん」  緋影が正座して、腕を広げてみせる。恭親は体を丸めてその膝にすがりついた。 「よしよし」  緋影が背中をさすってくれる。恭親は突っ伏したまま、すすり泣き始めた。 「今日も、祓呪の演習がありました」 「そうですか」 「……今日も、うまくできませんでした」 「あらあら」 「ぼくの成績がいつも最下位だから、曲輪たちが殴ってくるんです」 「まあ、お辛いことですねえ」 「……なんでそんなことをするのか、わからないんです。ぼくが落ちこぼれなことなんか、曲輪たちには関係ないのに。天玄院のくせにこんな低級呪念も祓えないのかって、突っかかってくるんです」  緋影が髪を撫でてきた感触があって、恭親は余計しくしくと泣いた。緋影の袴を握りしめる。 「……天玄院の家になんか、生まれなければよかった」 「あら、それは違いますよ、坊っちゃん」  頬に手の添えられた感触がした。抗わず、その手に導かれるまま起き上がる。緋影が恭親の涙を指先でぬぐった。 「私は坊っちゃんがこの(うち)に生まれてくれて、良かったと思っていますよ。だって、坊っちゃんが天玄院の子でなかったら、私と会うこともなかったってことですもの。そんなの、寂しいとは思いませんか?」 「……はい」  恭親は素直に頷いた。緋影が嬉しそうに笑って、恭親の体を抱きしめる。安心感もあったが、柔い女人の匂いに包まれて、恭親は落ち着かなくなった。遠慮がちに立ち上がる素振りをみせて、緋影が腕を解いてくれるよう図らった。 「あの、緋影さん、そろそろ行きます」 「あら、まだいらっしゃってもいいんですよ」 「えっと、宿題も、あるので」 「ああ、確かにそうですねえ。きちんと勉強して、えらいですね。坊っちゃん」  また頭を撫でられ、ゆっくりと緋影の体が離れた。恭親はそばに置いていた鞄を拾い上げて立ち上がり、襖に手をかけた。そのまま出ていこうとしたが、少し思いとどまって、緋影のほうを振り返った。緋影が小首をかしげて恭親を見つめる。恭親はもじもじと呟いた。 「また、来てもいいですか」  緋影は一瞬きょとんとして、すぐに破顔した。 「もちろんですよ。悲しいことがあれば、どうぞ緋影を頼ってください。私はいつでもお待ちしておりますよ」  手を振る緋影に見送られ、恭親は自室へ向かった。睫毛に残っていた細かい涙をこすり取る。頬の痛みはいつの間にか引いていた。
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