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一
敷地の裏口から誰にも見つからないように屋敷へ入り、天玄院恭親はほっと息をついた。授業が終わったあと、学習院から足早に帰ってきて、今は誰とも顔を会わせたくなかった。
勝手口と繋がっている炊事場の隅で膝を抱えて座り込む。奥のほうから使用人の声が聞こえるのだ。いなくなるまで待つことにした。
頬が鈍く痛みを発している。手を添えて、泣きそうになるのをぐっと堪えた。同じ学級にいる、曲輪という名の児童に殴られた傷だった。
(我慢しないと、我慢しないと……)
呪文のように心の中で唱えていると、使用人の声が遠ざかって消えた。恭親は立ち上がり、そっと炊事場を出た。
目的の部屋までは、裏口から行けば廊下の角を二回曲がるだけですぐ辿り着く。自室には寄らず、学習院の制服のまま、真っ直ぐ向かうことにした。しかし、途中で家の者とすれ違うので、恭親はその度に手近な部屋へ引っ込んでやり過ごした。こんな顔になっているのを見つかれば、どんな噂の種になるか分からない。それでなくても、父に知られればきっと叱責を受けるだろうと思った。
天玄院家の長男が、そんなことでどうする。これ以上家に泥を塗る気か。とかなんとか。
使用人が行ってしまったあと、恭親はそろりと隠れていた部屋から抜けて、あとは足音を立てないよう走った。それでも背負った鞄の内で文房具ががちゃがちゃと鳴っていたが、かまわないと思った。
目指す場所はすぐそこだ。もう、見えている。
「はあ、はあ」
閉められた襖の前で、静かに呼吸を整えた。ふう、とひとつ深呼吸して、中の人物に声をかける。
「緋影さん、入ってもいいですか」
はーい、と返事が聞こえた。恭親は襖をそっと開けて、中に滑り込んだ。
「あら、恭親坊っちゃん。いらっしゃい」
自室の机で書き物をしていた女――羽矢緋影がこちらを振り向いて、にっこり笑った。恭親は自分の体が安堵の熱に包まれたのを感じた。
「あらまあ、どうしたんですか。そのお顔」
緋影が口元に手を当てて少し驚いた様子をみせる。恭親の頬を指しているのだ。恭親はぱっと俯いた。安堵の熱から、羞恥の熱へ変わっていくのを感じた。
緋影が柔らかく微笑んだ。
「また、お友達にいじめられてしまったんですねえ」
「……」
「ちょっと待っててくださいね。冷やすものを取ってきますから」
ぽんぽん、と恭親の肩を撫でて、緋影は室外へ出て行った。ひとり残された部屋で、恭親は座り込んだ。
「少し赤くなってますけど、そんなにひどくはないですよ。すぐ治ります」
よく冷えた手拭いを恭親の頬に当てながら、緋影が言った。恭親はこくりと頷いた。上目遣いに緋影の顔をうかがう。にっこり笑んだ緋影と目が合った。
その瞬間、涙がこぼれそうになった。緋影の手に添えて、手拭いをそっと外す。
「もう、大丈夫です」
「あらそうですか?」
「……いつものやつ、やってもいいですか?」
「フフ、ええもちろん」
緋影が正座して、腕を広げてみせる。恭親は体を丸めてその膝にすがりついた。
「よしよし」
緋影が背中をさすってくれる。恭親は突っ伏したまま、すすり泣き始めた。
「今日も、祓呪の演習がありました」
「そうですか」
「……今日も、うまくできませんでした」
「あらあら」
「ぼくの成績がいつも最下位だから、曲輪たちが殴ってくるんです」
「まあ、お辛いことですねえ」
「……なんでそんなことをするのか、わからないんです。ぼくが落ちこぼれなことなんか、曲輪たちには関係ないのに。天玄院のくせにこんな低級呪念も祓えないのかって、突っかかってくるんです」
緋影が髪を撫でてきた感触があって、恭親は余計しくしくと泣いた。緋影の袴を握りしめる。
「……天玄院の家になんか、生まれなければよかった」
「あら、それは違いますよ、坊っちゃん」
頬に手の添えられた感触がした。抗わず、その手に導かれるまま起き上がる。緋影が恭親の涙を指先でぬぐった。
「私は坊っちゃんがこの家に生まれてくれて、良かったと思っていますよ。だって、坊っちゃんが天玄院の子でなかったら、私と会うこともなかったってことですもの。そんなの、寂しいとは思いませんか?」
「……はい」
恭親は素直に頷いた。緋影が嬉しそうに笑って、恭親の体を抱きしめる。安心感もあったが、柔い女人の匂いに包まれて、恭親は落ち着かなくなった。遠慮がちに立ち上がる素振りをみせて、緋影が腕を解いてくれるよう図らった。
「あの、緋影さん、そろそろ行きます」
「あら、まだいらっしゃってもいいんですよ」
「えっと、宿題も、あるので」
「ああ、確かにそうですねえ。きちんと勉強して、えらいですね。坊っちゃん」
また頭を撫でられ、ゆっくりと緋影の体が離れた。恭親はそばに置いていた鞄を拾い上げて立ち上がり、襖に手をかけた。そのまま出ていこうとしたが、少し思いとどまって、緋影のほうを振り返った。緋影が小首をかしげて恭親を見つめる。恭親はもじもじと呟いた。
「また、来てもいいですか」
緋影は一瞬きょとんとして、すぐに破顔した。
「もちろんですよ。悲しいことがあれば、どうぞ緋影を頼ってください。私はいつでもお待ちしておりますよ」
手を振る緋影に見送られ、恭親は自室へ向かった。睫毛に残っていた細かい涙をこすり取る。頬の痛みはいつの間にか引いていた。
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