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「ルートガー?」
「アデライーデ」
それから何日かして。
いつものように勤務を終え図書館から出ると、騎士の隊服を着たルートガーが入り口にある生垣の前で立っていた。周囲がよく見えない私でも、行き来する人々が皆こちらを見ているのを感じる。
「ど、どうしたの…?」
「君が夜会に出席すると聞いて…その、少し話せないかと思って。…突然訪ねて来て無作法なのは分かってる」
「いえ、いいのよ。……あの、これから帰るだけだから…」
「送るよ。歩きながら…いいかな」
「…いいわ」
そう返事をするとルートガーは嬉しそうに微笑み、その美しい笑顔を見た女性から悲鳴のような声が上がった。
「すまなかった」
二人で並んで歩き、回廊が取り囲む庭を眺めながらルートガーが小さな声で切り出した。
「え?」
「…その、黙ってて。アデライーデが王城の司書になったと知って…初めの頃は心配だったから、その…遠くから、何度か…君を見てた」
「そ、そうなのね…ごめんなさい、気が付かなくて」
「違うんだ、知っていたのに黙っていて…でも声を掛けたら…その、嫌がるだろうと思って。でも、黙っていてごめん」
「……どうしてそう思ったの」
「どうしてって…」
顔を上げるとルートガーは気まずそうに視線をウロウロと彷徨わせる。こんなに大きな身体で騎士の格好をしていても、話していると昔のルートガーと変わらない。私は段々気持ちが落ち着いて来るのを感じた。
「もしあの時のことを…私の誕生日の日のことを言っているのなら、もう気にしていないわ」
「…っ、え…」
ルートガーは目を瞠いて私を見る。
嘘ばっかり、とチャーリーの声が聞こえた気がした。
私はまた視線を逸らすと、何でもないように言葉を続ける。初めて眼鏡を掛けていて良かったと思ったかもしれない。
「ルートガーだってそういう年頃だったんだもの、あんなに魅力的な女性がいたら仕方ないと思うわ。場所はまずかったけど。でも、今となれば若気の至りだと分かるから大丈夫よ」
「ち、違うんだよアディ!」
「何が?」
「……エリザベスとはそんな関係じゃなかったんだ」
「そんな関係じゃなかったのに裸の胸を触っていたって言うの?」
「違う!それは…」
「節操ないのは今も変わらず?」
「アディ!お願いだ信じてくれ、僕は女性とそんな関係になったことはないんだよ!!」
「……え…?…じゃあ、男性と…」
「違う!」
ルートガーは頭を抱えて呻いた。どうしてそうなるんだ、とブツブツ呟いている。
ねえ待って、どういうこと?
女性とそんな関係になったことがない?
「……じゃあルートガーは、まだ童て…」
「アデライーデ!!君何てこと言うんだ!!」
ルートガーは真っ赤になって私の口を押さえ、言葉を遮った。そしてすぐ、更に真っ赤になって慌てて手を離し両手を上げた。
「ごごご、ごめん!!」
「いえ、こちらこそ…?」
ナニこの初心な大人の男性は。
本当に騎士団の人なの?あのむさ苦しい男たちと仕事をしている人なの?ていうか、あの一連の噂はなんだったの。まさか全部でたらめ…?
でも私はこの目でルートガーがエリザベス嬢の胸を触っているのを見た。
……ううん、触らされているのを…見た。
私は茫然とした。だってするでしょう?全てを知らないまま、私は五年も一人で勝手に拗らせていたって言うの?
今度こそチャーリーが大笑いする姿がはっきりと見えた。
「………嘘でしょう…」
「…アディ、君はやっぱり…もう…」
呆然とする私をよそに、ルートガーも何やら苦悶の表情を浮かべ、片手で顔を覆うとがっくりと項垂れた。何がそんなに衝撃なのかよく分からないけれど、私の衝撃に比べれば大した問題じゃないと思う。
「………アイツの、ドレスを着るの?」
「え?」
顔を覆ったままくぐもった声でルートガーが何か言った。
「ドレス…」
「え、ああ、そうね。私そういうの疎いからよく分からないけれど、素敵なドレスよ」
「そう……アイツと……、いや、僕は…」
ルートガーは何かを言おうと顔を上げたけれど、思い直したのかぐっと唇を引き結んだ。
ルートガーは回廊が取り囲む庭にある噴水を指し示した。私を座らせたいらしい。いつまでも身体が弱い私ではないのだけれど、心配してのことなのだろう。人の目も気になる私は大人しくそれに従い、噴水の縁に腰掛けた。
「アデライーデ、これを…受け取って欲しい」
ルートガーは私の前で跪きそう言うと、真っ白な天鵞絨の箱を取り出した。
「…これは」
「本当はアデライーデのデビュタントの時に渡そうと…昔、用意していたものなんだ」
受け取り、そっと開けてみる。
それは揃いのデザインのネックレスとイヤリングだった。
華美なデザインではなく緑色の宝石がシンプルにカットされたもの。けれどその宝石は内部で複雑に光が屈折し、赤やオレンジ、黄色など様々な色がキラキラと煌めいている。
「………綺麗…」
「アデライーデの瞳の色だよ」
「わ、私の瞳はこんなに綺麗じゃないわ」
「綺麗だよ。…僕は知ってる」
ルートガーの言葉に思わず顔を上げた。その瞳は昔を懐かしむように優しい色を乗せている。
「子供の頃しか知らないでしょう」
「ふふ、この間も見たよ。昔と変わらず…いや、昔よりも綺麗だ」
ルートガーの言葉に頬が熱くなった。さっと視線を逸らし眼鏡をグイッと持ち上げる。
「ありがとう、ルートガー。でもこんな高価なもの…」
「夜会で付けて欲しい。君のために用意したんだ。…僕の贈り物は嫌かもしれないけど…」
小さな声でルートガーがポツリと溢した言葉に思わず顔を向けてしまった。
申し訳なさそうな顔をしたルートガーが瞳を伏せている。長い睫毛が落とす影に、なんて美しいんだろうと場違いな感想を抱いた。
「…分かったわ…」
小さな声で答えたそれは、ちゃんとルートガーに届いたみたいで。雰囲気が柔らかくなったのを感じた。
「アデライーデ、その…隣に座ってもいい?」
「え!?」
何、隣に座る??
混乱して返事に窮している私を、捨てられた大型犬のような風情でルートガーが見ている。
ずるいわ、美丈夫のそんな表情!
「い、いいけど…」
全く良くないのについ口を出るのはそんな言葉。ルートガーはその言葉に嬉しそうに立ち上がると、少し距離をとって私の隣に腰掛けた。
「今、つけてみて欲しい…」
そう言って天鵞絨の箱からネックレスを取り出し、持ち上げる。陽の光に煌めきキラキラと輝くそれを、同じくキラキラと期待に満ちた表情をしたルートガーに言われては断ることも出来ず。
私は黙って頷きルートガーに背を向けると、ルートガーがそっとネックレスを首にかけ後ろで留め具を留めた。
ルートガーの指先が頸を掠め、ゾクリと身体が震える。私に触れているルートガーの指先に、私の全てが集中している。耳も頬も、全て熱い。
やっと指先が離れる感覚がしてルートガーの方を向くと、思っていたより近くにいて顔が更に熱くなった。
「…眼鏡を取って見せて」
その蒼灰色の瞳に射抜かれてはもう従うしかない。
断る術を持たない私は黙って頷き、眼鏡を取ろうと手を掛けると、ルートガーがそっと指先でその手を遮った。ルートガーの長い指が壊れものを扱うように私の眼鏡を持ち上げる。
顔の近さも指の動きにも、もう私の心臓は爆発寸前。
「…アデライーデ」
ルートガーの呼ぶ声に無意識に目を瞑っていた瞳を開けると、ぼんやりと広がる世界。
目の前のルートガーが息を呑む気配が伝わって来たけれど、その表情は分からない。ぼんやりとした輪郭のルートガーの顔をじっと見つめると、ルートガーが身を屈めた。
「見える?」
「…輪郭は、何となく」
「そうか…。じゃあ、この位は?」
そう言うと更に顔を寄せ、私の視界いっぱいにルートガーの瞳が写った。ほんのりとくすんだ蒼灰色の瞳。その瞳には私の顔が映っている。
「みっ、見えるけどそんなに近付く必要ないでしょう!」
「そう?僕には必要だったんだけど…ごめんね?」
慌てて仰け反りそう言うと、ルートガーはクスクスと笑いながらゆっくりと身体を離した。なんだか遊ばれているような気がして、むうっと頬を膨らませると、そんな私の表情を見てルートガーは益々笑いながらごめん、と謝った。
「僕も夜会には出席するから…これを身につけて来て欲しい」
「わ、分かったわ…」
「約束だよ。それからその時は…」
ルートガーは私の手をそっと持ち上げて手の甲に口付けを落とすふりをした。
「僕と踊って、アデライーデ」
その見上げるように真っ直ぐ私を見つめる蒼灰色の瞳に、私は一つ頷くので精一杯だった。
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