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遠くで扉を叩く音がする。
「…ディ…!…ッ…!!」
ゆっくりと意識が覚醒して、少し遅れて扉を叩かれている事に気が付いた。
「アディ!!」
「…ルートガー?」
「!!アデライーデ!いるのか!?」
「え?ええ、ちょっと待って…」
ふらつく頭を押さえて扉の鍵を開けると、ルートガーが真っ青な顔で飛び込んできた。
「ルートガー、どうしたの…」
「アデライーデ、大丈夫か!?」
ルートガーはそう言うと私を抱き締めた。
「る、るー…!?!?」
「アイツは!!」
「え、ええ???」
「チャーリー・バーグースだ!」
「ホールへ戻ったわ!ねえ、ルートガー落ち着いて!」
私はグイっとルートガーの胸を思いっきり手で押した。…ビクともしない。
「…戻った…?君を置いて…?」
「チャーリーにもすべきことがあるのよ。私は少し休めば大丈夫だから…」
お願いだから早く離して欲しい。そう思ってもルートガーの腕が緩む気配がない。
何だって言うの…!私の心臓が持ちそうにないわ…!!
「…ここで何を…」
「休んでいただけよ!ルートガーこそどうしたの?」
「身体は、大丈夫?」
「大丈夫よ、休んだからすっかりよくなったわ」
「君を…見失ってしまって…すぐに駆け付けられなくてごめん」
「いいのよ、もう帰るから。ルートガーも戻ってもいいのよ」
「戻るわけない!」
ルートガーは益々私を強く抱き締め、私の頬に掌を寄せて上を向かせた。
「僕はもう間違えない」
私の瞳を覗き込むその蒼灰色の瞳が仄暗く光る。
「…アディ、アデライーデ、僕は…君が好きだよ」
どのくらい時間が経ったのか。
ルートガーから放たれたその言葉を何度も反芻して、私はやっと意味を飲み込んだ。そっとルートガーの胸を押すと、今度はあっさりと身体が離れる。背中に回されていたルートガーの腕がだらりと下りた。
「…嘘」
「嘘じゃないよ」
「嘘よ。…そんなこと…いつから…」
「ずっと。君が…小さな頃から、僕も覚えていないくらいずっと前から、ずっと君だけが好きだよ」
「…っち、違うわ、だって、だってルーは学園に行ってから…」
「あれは嘘だ」
「そんなの!」
「信じられない?」
信じられない。信じられるわけがない。私なんか…まだまだ子供だった私を、年頃のルートガーが好きになるわけがない。
「…噂を信じた…?」
ルートガーはじっと私を見つめたまま動かない。私は一歩、一歩と後ろに下がりルートガーから離れる。
「…信じてなかったわ。ただの噂だと、何かの間違いだと…でも」
「君の誕生日に台無しにした」
「そうよ!!」
そうだ。
ルートガーは私の誕生日に、あの美しい人と一緒にいた。あの白く美しい肌に触れていた。
「何を言っても言い訳になる…あれは僕も悪かったんだ。でも、本当に誰ともそんな関係を持ったことはないんだよ」
「…この間も言ってたわね。…ルートガーはまだ童て…」
「アディ!!」
ここでまた赤くなるなんて、この人はどこまで初心なんだろう。
「…いいわ。聞かせてちょうだい。私ももう間違えないから」
私がそう言うと、ルートガーは少しだけ息を吐き出し、片手で口元を覆い俯いた。話しにくそうにウロウロと視線を泳がせている。私はじっとルートガーの言葉を待った。
「…君を好きだと自覚したのは…本当に子供の頃だよ。初めの頃はまだまだ小さい君を守ってあげなくちゃいけないと思っていた。でも成長するにつれて、君との未来以外考えられないくらい、僕は君のことが好きだった。でも僕は子爵家の長男で家を継がなければいけない。君とは…僕がどんなに望んでも、家格が下の僕は君とは婚約できないだろうと言われたんだ。僕は…諦めるしかなかった。君は手の届かない人だと思ったから。だから、学園に進学することを選んで君から離れることにしたんだ。学園に入学すると色んな人から声を掛けられたのは本当だけど…君を忘れられなかった」
ルートガーは立ち尽くしたまま視線を落とし言葉を紡ぐ。
私は自分でも驚くほど、ルートガーの言葉を落ち着いた気持ちで聞いていた。
「ある日、…その、年上の女性に言い寄られたことがあった。でも、何も…駄目だったんだよ、僕は…」
「反応しなかった?」
「アディ…!」
やめてくれと言わんばかりにルートガーは両手で顔を覆ってしまった。髪から覗く耳が真っ赤に染まっている。
「…っ、それが相手のプライドを傷つけたんだと思う…それから噂が広まりだした。するととにかく沢山の人が絡んでくるようになって、でも、全然、誰にも何も感じなかったんだよ…」
「不能…?」
「ねえアデライーデ!君一体どこでそういうこと覚えたんだ!?」
「それはまあ、お屋敷でかしら…」
「君の家は一体どうなってるの…」
ルートガーが完全に子供に見える。私に言わせればあなたの方がどうなっているのか教えてもらいたい。
「あの日、君の誕生日に現れた彼女は…僕が全然彼女に興味をもたないから、いつも何とかしようとしつこく絡んできた。僕はいつもの…君と一緒に過ごした四阿に逃げたんだけど…」
「誘ったものの全く反応しないあなたにプライドが傷ついて、ムキになってあの手この手で試したってわけね」
「…い、言い方…」
「一度も?」
「…え?」
「一度も反応した事ないの?誰にも?」
「…っ!それ、は…」
気を失うんじゃないかしら。
そう思うくらい、多分ルートガーの羞恥が限界なんだと思う。でも私は耳年増なので何も恥ずかしくない。ちゃんと聞かせて欲しい。何ならちょっと面白がっている自分もいる。
「……に…」
「え?」
「…っ、だから、その、…君に…だけ…」
その回答はちょっと予想外だった。
…私に…???
「えっと…私…?待って、最後に会ったのは十六歳でしょう?あの時あなたは十九歳…え、いつ?いつから…待って、いつだったとしても…」
成人していない私に、そういう感情を持っていたってこと?
「それってただの幼女しゅ…」
「違う!!!」
ルートガーは真っ赤な顔を更に染めて私に食いつかんばかりに叫んだ。
「幼い君にそんなことを思ったことはない!!」
「え、じゃあ一体…」
「…だからっ、君が大きくなったらって…想像して…その…」
「…すごいわね…?」
なんて想像力だろう。私が大きくなったのを想像した時だけ反応したの?え、どういう仕組み…?
「赤毛好きなだけじゃ…」
「それも違う」
「即答…試したの?」
「っ、たっ、試されたこと、はある…」
「それって最後まで致していないだけで結構経験はあるってことよね」
「違う!何もしてないんだ、僕には君だけだ!!」
急に真っ直ぐ私を見たルートガーの瞳に、身動きが取れなくなってしまった。顔が熱くなる。なにこれ、一体何なの?甘い言葉でも心ときめくような状況でもない。
ただ私にだけ反応するって話を聞かせられてる…?
「ル、ルートガー、あなたは私が好きなんじゃなくて、想像の中の私にしか反応しないことに困っているだけなんじゃ…」
「違う。君が好きなんだよ。他の誰にも興味なんてない」
「ルートガー、待って」
「どうしたら信じてくれる…?」
「え?」
「僕がずっと君だけを好きだってこと…どうしたら信じてくれる?」
「そ、れは…」
「…僕は?僕のことはどう思ってる?」
「ル、ルー…、ずるいわそんな…」
「教えてアディ…僕のこと、まだ気持ち悪い…?」
「そんな事ない、あなたは今も素敵だわ!」
「アディ!!」
感極まったようにルートガーが名前を呼んだ。顔はよく見えない。見えないけれど恥ずかしくて今度は私が真っ赤になる番だった。
でもここで逃げ出したって何も変わらないのだ。私はドレスをギュッと握りしめて床を見つめながら言葉を繋いだ。
「あなたは…あなたはずっと素敵だわ、ルー。私にとって忘れられない初恋の人だもの…
ずっとずっと好きだった。好きでたまらなかった。一緒にいるのが当たり前だと思ってた。学園に行ってしまって、悲しくて悲しくて、まともに学園に通えないほど身体の弱い自分を呪ったりもした。それでも何とか一緒にいたくて、ダンスを習って勉強も頑張って、ルートガーと学園に通うことを夢見てた。
だからこそあんな場面を目撃して、二度と会いたくないと、私の全てがルートガーを拒絶した。
……勝手に悲しくなっただけなの。裏切られた気がしたの。私、私は十六歳になったらあなたと踊れると思ってた。初めて踊るのはあなたとだって信じてた。だから…っ」
ポロリと一粒涙が溢れた。
「アデライーデ」
すぐ目の前にルートガーがいる。
こんなにこの人を好きなのに、どうして私は恨み言しか言えないのだろう。
「……あなたが好きよ、ルー。ずっと、ずっと好きだった……」
ぼんやりとした視界が涙でさらに滲む。
目の前に濃紺が広がり柔らかく抱き締められる。ふわりとルートガーの香りが鼻腔を掠めた。
「アディ…ごめん、ごめんね。好きなんだ。ずっとずっと好きだよ…僕は君以外いらない。君しかいらないんだ。僕の全ては君のためにある」
「………私の…?」
「今日から僕は君のものだよ、アデライーデ」
遠くから聞こえる楽団の奏でる華やかなワルツ、浮き足立つ人々の喧騒。
ルートガーの黒髪のようなダークブラウンの髪が揺れ、蒼灰色の瞳が仄暗く揺らめく。
私の肩に顔を埋め、ルートガーの高い鼻が私の首筋をくすぐり、唇を優しく這わせながら熱く息を吐いた。
「ル、ルー…」
「いい匂いがする…」
その声にぞくりと背筋が震える。
ルートガーはそのまま耳裏に鼻を当て優しく唇を這わせると、はむ、と耳朶を口に含んだ。
「まっ、待ってルー!」
「待ったよ。凄く待った…」
確かに私が子供の頃からずっと好きでいてくれて、誰とも関係を持ったことがないと言うのが本当なら、確かに凄く待ったでしょうけど…!
ちゅ、ちゅ、と音を立てて私の首筋や耳に口付けを落として、ルートガーは深くため息をついた。
「……キスがしたい、アディ」
初心者がそれを聞かされるって、どうなのか。
「る、るー…」
「……いいって言って、アディ…お願いだ」
「ず、ずるいわ…!」
「お願い。…したい」
ルートガーはそう言いながら額を合わせ、熱い吐息を吐いた。
「わ、私に言わせるの…?」
「嫌なことはしたくない」
「分かってるくせに…!!」
「言葉で聞かせて」
「そんな風に聞く方が嫌だわ…!」
なんて酷い人なの!
思いっ切りルートガーの胸を叩くとぽこん、と音を立てた。
ルートガーはクスクスと笑うと私の腰に腕を回し、グイッと引き寄せた。隊服越しでも分かる筋肉や熱が、私の熱を高めていく。
「僕の好きにしていいと言うなら、もう止められない…アデライーデ、嫌ならそう言って」
さっきまで、私の言葉に真っ赤になっていた人とは思えない。
何だか負けたくない気持ちが私の中にムクムクと沸き起こり、私はルートガーの首に腕を回した。ルートガーの身体がピクリと揺れる。
「……いいわ、ルートガー。……私にキスして」
途端、まるで噛みつくようなキスが私を襲った。
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