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駅から歩いて三十分ほど、深い森を抜けた先にその屋敷はたたずむ。
どっしりとした威厳と静寂を漂わす言わずと知れた屋敷である。
その館は「南雲食器」という有名な食器メーカーの会長の邸宅となっている。南雲食器といえば日本でも有数の企業であり、古い歴史も持ち合わせていた。
また、おびただしい数の桜の木を植えていることでも有名であった。
春になると、館の敷地中が桜色に染まり暖かい香を薫らすという。故に古くから「桜屋敷」とも呼ばれている。そして僕は今その館の目の前にいる。3日分の着替えまで持って。
「本当に僕なんかが来ても良かったのだろうか」
僕は誰に言うこともなくそうひとりごちた。見れば、門の先に使用人らしき老女が待ち構えている。そんな人間に頭を下げてもらえるほど僕は偉い人間ではない。早くも気が重くなる。普通に人生を歩んでいれば、社長の家にお邪魔することなと無かっただろう。
「いいんだよ。僕が呼んだんだから」
隣で一緒に歩いている岸廉太郎は白い歯を見せながらそう言った。
なぜただの高校生である僕が大手メーカーの会長の邸宅に呼ばれることになったのか。それは全て隣の男のせいである。
この男の父、岸幸四郎と言ったか。彼が「南雲食器」の重役なのである。会長からの信頼も厚く、毎年様々な会食に誘われていたらしい。
明日は会長の息子の結婚式である。息子というのは当然御曹司であり、その人の結婚式といえば大イベントである。当然、岸幸四郎も呼ばれることになっていたのだが、直前に体調を崩してしまい、参加できなくなってしまった。しかし南雲家の側近ともいえる岸家の代表がいないというのはあるまじきことだった。代役として呼ばれたのがその息子であるこの男。
名前は岸廉太郎という。
高校生にも関わらず、そんな重要な式典に出られるということは廉太郎自身もまた、信頼を得ているのだろう。僕は言わば付き添いである。邪魔者にならないようにだけ気を付けようと思う。
廉太郎は重厚な装飾が入った漆黒の門をくぐった。僕も続いて門をくぐる。ここを越えれば桜屋敷の中だ。もう後戻りは出来ない気がした。
入った瞬間、ふっと視界が明るくなった。
おとぎ話のような淡く、希望に満ちた色合いである。
庭に植えられた桜の木。暖かい風に合わせてキラキラとなびいていた。時折花弁が舞い、庭を桜色に染めていく。頬を花弁が撫でる。
僕は大きく息を吸った。暖かい匂いがする。春の陽気の香りと桜の雅やかな香りである。
ああ、春なのだなあと全身で感じた。
しばし立ちすくんでしまった。
目の前には二人の男女が頭を下げている。
「ようこそお越しくださいました。岸廉太郎様。茂木斗真様」
僕の名前を丁重に読み上げたのは真っ黒な髪をした男。ワックスを付けているのか、オールバックにした髪がツヤツヤと光っている。目鼻は整い、鼻の下には髭を生やしている。六十代ぐらいだろうが、貫禄があり、紳士的な面構えであった。
おそらく、この館の当主であり南雲食器の会長である。
「私は南雲淳二と申します。本日は息子の結婚式にお越しいただきありがとうございます。」
彼は僕達に深々と頭を下げた。横で同じく頭を下げているのは使用人であろう。ふっくらとした老女である。
「今年も咲きましたねぇ。見事だ」
廉太郎は庭を眺めながらそう言う。手慣れた様子だ。今年も、ということは過去にも何度か来たことがあるのだろうか。
館に向けてゆっくり歩き出す。
奥にはどっしりと、それでいて優しい空気に包まれた屋敷があった。左右対処なその外見は城のようであり、実に豪華である。
僕は桜をぽーっと眺めていた。
「斗真様は初めてこの庭をご覧になると思います。どうです?立派な桜でしょう」
淳二は誇らしげに庭を見渡していた。
僕はええ、とかはい、とかしか言えない。生まれて初めて経験するこの厳かな空間に萎縮してしまったのだ。しかも、目の前を歩くのは会社の会長である。どんな口をきけばいいかなどまるで分からない。
「お部屋に案内します。こちらへ来てください。」
淳二は僕達に歩くよう促した。どうやら家長が直々に部屋に連れて行ってくれるらしい。
隣の使用人は私は失礼致します、と言って去っていった。深々と頭を下げる。
館の中は落ち着いた色の木でできていた。高い天井、細緻な装飾、木の香り。上品な雰囲気が全身を覆う。僕は更に萎縮してしまった。汗が止まらない。
早く部屋に入りたい、と思った。
「ほら、斗真くん。もっと堂々としなよ。来客だろう」
廉太郎は完全に僕を馬鹿にしている。僕は更に縮こまった。
「斗真様。緊張なさる必要はありません。どうぞこの三日間、ゆっくりと過ごしてください。」
淳二は顔をこちらに向けて優しい笑顔でそう言った。紳士的で好印象だ。会社のトップだと聞いていたからどんな傲岸な人間が出てくるかと思っていたのだが、全くそんなことはなかった。
そういえば、この家には照明が少ない。よく見れば間接照明がいくつかあるのだが、これでは薄暗いだろうと思う。
それにしても、窓が特殊な形をしている。
「窓が…」
僕は思わず声に出した。窓?と廉太郎は鸚鵡返しにする。
「ああ、窓ですね。不思議な形でしょう。この館は日光が多く満遍なく広がるように設計されていて、この窓は光を取り込みやすくなっているのです。やはり、自然の光を浴びて生活した方が健康によいですからね。」
桜の庭園といい、偉く自然と共存した屋敷である。この屋敷が森の奥に建っているのも先代の自然好きが故のものなのだろうか。
それにしても、桜の香りが室内にまで漂っているのは驚いた。何とも優雅なものである。
時折こうやって深呼吸をし、この典雅な香りを吸い込むのである。
緊張している僕の心を和らげる唯一の方法であった。
「さて、こちらです」
淳二がそう言って指したのは二階に上がってすぐの部屋だった。
「鍵がかけられるようになってますので渡しておきます。電話があるので、お好きな時に呼んでください。お夕飯の時にまた連絡致します」
何だか、使用人のような態度である。これだけ控えめな性格の主ではどう対応すれば良いのか分からない。これなら、もっと偉そうにしている人の方がよかったかもしれない。
僕は部屋に入ると、ようやく一息つくことができた。淳二の階段を降りていく音が小さく響いていく。
足音が完全に消え、部屋の中が静寂に包まれたとき、僕ははあと息をついた。
「あれ、もうお疲れかい?」
「苦手なんだ。こういう礼儀正しい場所が」
それは、自分の普段の生活とかけ離れて上品だからだろう。こんな場所にいると自分の生活水準がいかに低かったのか痛感させられ、自分という存在の矮小さを思い知らされることになる。
「ここに来たいと行ったのは君じゃないか。」
「誘い出したのは君だ。綺麗な桜の屋敷があるって」
「急に饒舌になるじゃないか。さっきはお腹でも痛かったのかい?」
「お前は…」
ククク、と廉太郎は笑った。僕は改めてため息をつき、ベッドに寝転がった。深い茶色でできた天井を眺める。
「君は、慣れているのかい?こういう場所」
「まあね。父の付き添いでいろんな所へ出掛けるから。愛想よくするのも、上手くあしらうのもお手のものよ」
家柄というものはつくづくずるいものだと思う。僕も彼のように経験を積んでいればそんな大人びたことがいるようになるのだろうか。
「ここには来たことあるのか?」
こことは南雲家のことである。
「二年前に一度だ。あのときも桜が咲いていたよ。今ほど多くはなかったけどね。」
桜は今も増え続けているのか。
「色々変わったねえ、この場所も。二年前、そこらへんはただの草原だった。」
窓の外を指差した。
「それに、窓がさらにおかしくなってる。」
そう言って窓をコンコンと叩いた。
この窓は光を取り込みやすくなっているのです。
淳二の言葉を思い出す。確かに変わった形の窓である。遠くから見るとあまり目立たないのだが、近くで見るとそのおかしさが分かる。ガラスの表面が少しボコボコと歪んでいるのだ。それは、乱雑に光を跳ね返し、ダイヤモンドのようにチカチカ光っている。だが、こんな窓だからこそ日光をしっかり取り込めるのだろう。
僕はLEDなどの照明はあまり好きじゃない。無機質で、暖かみがなく、何となく毒を浴びているような気がするからだ。そんな僕にとってこの館はなかなか居心地のよいものだった。雰囲気が厳かすぎることを除けば。
「こんなに明るいと、本をおく場所に困るなあ」
廉太郎はてに本を抱えてそう呟いた。
「困る?何でだい?」
「日焼けしてしまうからだよ。ほら、古本屋なんかに行くと縁が黄ばんだ本を見ることがあるだろう。ああいうのは日光を浴びすぎて日焼けしてしまった本さ。僕は本を傷つけたくないんだ。」
時々忘れそうになるが、彼も生粋の本好きなのだ。彼のようにスポーツ少年然とした風貌をしていると、とても本を読むような人間には思えない
「因みに何の本を持ってきたんだい?」
「アガサ・クリスティー」
渋い。
彼は一通り準備を終えると、窓の前の椅子にどっかり腰を掛け、本を開いた。
「全く、不思議な窓だなあ」
廉太郎はガラスを見たり叩いたりして訝しんでいる。
そこで、あれ、と声をあげた。
「どうした」
「おい斗真くん。あれを見てみろ」
指を指した先にあったのは庭の中で一番大きな桜の木、の下である。
「何か、ある?」
「誰か倒れているだろう、もっと目を凝らせ」
言われてみればそこには横たわっている人間がいる気がする。
「何だ?あれ」
しばし、二人で窓に目をくっ付け覗いた。奇妙な光景だったと思う。
まあ、百聞は一見に如かず、と廉太郎は言った。
「行ってみようぜ!ついてこい斗真くん!」
廉太郎は遠足へ行く子供のように無邪気な顔を浮かべ僕の手を引いた。足がもつれそうになりながら必死に付いていく。
煌びやかな装飾のついた階段を降りる途中、淳二とすれ違った。
「おお、君たち。どこへ行かれるのですか」
「ちょっと外に行ってきます!」
廉太郎は快活に答え、再び走り出した。僕はすべすべした木の手すりを掴みながら慌てて降りていった。
行ってらっしゃい、という声が後ろから聞こえた。
扉を開けるとまた暖かい空気が流れ込んできた。さっき見た桜の位置を確かめながら走る。
近くから見た桜は圧巻だった。花弁の間からこぼれ落ちる木漏れ日が暖かい。足元は一面に草原になっていて、思わず寝そべりたくなる。
あれ、と廉太郎は言った。
「あの部屋の中、本が日焼けしてるなあ」
二階のある部屋を指した。
「部屋の中?あ、本当だ。カーテン越しでも分かるものだなあ」
まあ、どうでもいいや、と彼は言った。
再び地面に目を映す。普通庭に人が倒れていればすぐ分かるものだろうと思うが、この家の場合、視界が桜色に遮られてよく見えない。
「確かに誰かが横たわっていたと思ったんだけどな…」
「お!あれじゃないか?」
指差した。確かに誰かが倒れている。スーツを着た女性のようだ。
僕達は草原をがさがさと踏みしめ、そこへ向かった。
「これは…」
話に聞いていた息子の花嫁だと思う。顔を知っているわけではないが、この屋敷に住んでいる若い女性は彼女しかいないだろう。
これが、明日結婚式を挙げる新婦か、と思った。
美しい顔である。目を閉じていても分かる大きな目。一本一本がつるつると独立した黒い髪。黒いスーツから伸びた若木のように細く瑞々しい腕。僕はその美しさに声を出せなくなってしまった。彼女の体のあちらこちらに桜色の花弁が散らされている。桜屋敷と一体化したような、暖かく春を感じる光景であった。
にも関わらず、彼女からは冷たい空気が感じられた。まるで生きているようには感じられない。そういえば、肌も蝋のように白く、生きている人間のそれには見えない。徐々に不信感が高まる。隣の男が顔を青ざめていった。
「これ、本当に生きているのか?」
僕は彼の焦っている様子を久しぶりに見た。いつも冷静というか、余裕を装っている彼が狼狽えていると、こちらまで憔悴した気持ちが募る。
「どうしましたか?」
背後から老婆が話しかけてきた。最初、門の前で出迎えてくれた使用人である。
「あの、こちらの方が…」
「おや、お嬢様。どうしてこんなところに」
細かい足取りで、地面に倒れた女に寄り添う。何度か体を揺すっているが、彼女は首をぐらぐら振らすだけで反応はない。不審そうに首をかしげる。その後心臓に耳を当てた。やがてその青ざめた顔をこちらに向けた。
「淳二様と春樹様を呼んで下さいませんか。」
絞り出すような声だ。小刻みに震えている。門の前で見た暖かい笑みはとっくに消えていた。
「淳二さんと春樹さんだな!分かった!呼んでくる!」
廉太郎も鬼気った物言いである。僕もじわじわと事態の深刻さを感じ始めた。彼は転びそうな足取りで館へ戻っていった。その場には僕と、使用人と、死んだ花嫁だけが残った。
「あの、彼女は、やはり」
「死んでいます」
怯えたような物言いである。
「警察を、呼びましょうか」
「呼ばないで下さい。私にはなんとも言えませんが、きっと淳二様はそう仰います。」
警察を、呼ばない?
「でも、人が死んだんですよ?」
「何も警察に言う必要はないでしょう。秋声様の奥様が亡くなったときも警察は呼ばず、南雲家の斡旋した葬儀場と寺院によって弔いました。」
「でも、それじゃ」
「警察に連れて、冷たくて薬臭いベッドに寝かせる方が可哀想です。」
はあ、と返事をした。別に彼女と倫理観がどうだのと口論したくはない。僕には関係の無いことだし、波風たたぬように対応しようと思う。
その時、後ろからドタドタと乱暴な足音が聞こえた。廉太郎と、その後には淳二がいた。
「どうしたのですか!絹子さんが」
喋り終える前に絶句した。恐らく、その死体の悲惨さに絶句したわけではあるまい。きっと見とれてしまったのだ。この女の美しさに。死んでもなお作り出す穏やかな空気にからめとられてしまったのだろう。
「これは…」
虚空に言葉を吐き出した。もう一度死体に目をやる。すやすやと眠っているようにも見える。彼女の頬に花弁が舞い落ちた。
「母の時のように警察は呼ばないのだな。では、早く地下の安置室に運んでくれ」
切れた息を整えながらそう言った。そういえば、ここに呼んだのは淳二と春樹、だったはずだ。春樹という人間は知らないが、少なくともこの場にその人はいないようである。
「春樹、さんは」
廉太郎は俯きながら淳二を上目遣いに見てそう言った。
「ああ、春樹ですか。彼はショックで見てられないそうなので部屋にいてもらうことにしました。」
「気の毒だ…」
僕は呟いた。
「本当に、警察は呼ばなくて良いのですか?」
「いいんです。それは承知していただきたい」
「なぜそんなに」
「私の父が警察を嫌っているのです。いや、恐れているのです。恐怖症に近いと思います。乱暴で、粗野で、雅でない。人の家に土足で上がり込み必要のない過去まで掘り返す。そんなイメージを持っておられるようなのです。父は徹底的に警察と縁を切るために犯罪や事故が起こった際に調査してくれる警察代わりの調査団も作りました。だから警察を呼ぶ必要はない。」
「そこまでして、」
「父は戦後間もない頃、警察に無実の罪で捕まりました。スパイだと言われ、拷問のような調査を受け、足に傷を負いました。今も車椅子なんです。そんな父のためにも警察は、呼びたくない」
「今までだってそうでした。警察は必要ありません。確かに、お二方にとってこの家は異常に思えるかもしれません。ですが、何も問題ない、と思って頂けませんか」
使用人も続いてそう言った。
「そういうことなら、別に」
廉太郎は相づちを打つ。
僕も適当に同調しておいた。
彼らなりの倫理や道徳観があるのだ。僕が口を挟めることではあるまい。話を聞く限り、違法のような気はするが、それをあげつらうほど立派な人間ではない。
淳二は絹子の眠ったような顔を覗いた。本当に死んでいるとは思えない。だが、生きているようにも見えない。そんな人形のような雰囲気をまとっていた。
「葬儀屋に連絡してください。」
了解しました、と使用人が言った。
しばらく沈黙が続いた。耳に暖かい風が吹く。やはり、美しい。この館も、この女性も、全てが美しすぎるのだ。僕はこの館に身を埋めたくなった。
「死因は何だ。」
廉太郎はぽつりと言った。数秒の沈黙の後、使用人が首をかしげて言う。
「確かに、どうしてこんなところで…」
「彼女はどうしてこんなところにいたんだろう?おかしいだろう?事故がおきそうな場所でもないし、病死だとしたら家で安静にしていたはずだ」
要するに殺されたのだ。と言いたいのだろう。
僕はその言葉を抑えた。おそらく、この場にいる全ての人間はそう思っている。しかし、そうであればこの館に住んでいる誰かが犯人ということになってしまう。
この世界は名声、イメージが大きく信用に関わるなのだ。それを失うことは社会的な死を意味すると言っても過言ではないだろう。
大手会社の一家の一員が殺人者ということになれば何が起きるのか、想像することもできない。
もしかして、警察を呼ばないというのもそれが本当の理由なのだろうか。
淳二は苦しそうな顔をした。
「それは、絹子さんは殺された、という意味でしょうか」
「止めましょう、お父様。そうと決まったわけではありません」
「しかし、」
「そうだったとしても、警察に連絡しないのだから大丈夫でしょう。今やるべきことは彼女の遺体を腐らないようにすることです」
分かる。彼女が殺されたということは、今まで親しく話してきた中に殺人者がいるかもしれない、ということだ。認めたくないのだろう。
「明日の結婚式は中止です。今こちらへ向かっている客人は全て来ないように言い渡します。角島さん、絹子さんを地下へ運んでください」
「承知しました。」
使用人の名前は角島というらしい。
「君たちも、部屋に戻っていてください。春樹や薫子には私から伝えますので」
薫子というのは彼の妻だろうか。まだ僕はこの家の住人を把握していない。
淳二は館へ戻っていった。春風だけが聞こえるようになった。
「自己紹介が遅れました。私、使用人の角島とみゑでございます」
角島は深々と頭を下げた。
「お見苦しい所を見せてしまいました。やはり警察が嫌いというのは、変ですよね」
「いえ、別に。それより絹子さんを早く安置してあげてください。地下室に置いておくんですか」
「はい。地下はいつでも涼しくなっていますから。腐ることはありません」
人が殺されたとは思えない穏やかな雰囲気であった。みな絹子を「死体」ではなく「家族」として扱っていて、異様な光景であった。
「やはり、毒殺だろうか」
廉太郎は訝しげに絹子を見た。
「おい、殺人の話はよそうぜ。せっかくの桜屋敷なのに」
この館で人が殺された、と信じたくなかった。ましてやその犯人がこの屋敷の中にいるなど…
「そう言って大事なことを棚にあげて。」
彼は不服そうに顔を上げた。呆れているようにも見える。
絹子の顔に蝿が止まった。僕は思わず目を反らす。
「ああ、早く地下に運ばないと。すみません、私はこれで失礼します。」
角島は荷物を運ぶように絹子を担いだ。
「さて、斗真くん。君も部屋に戻ろう」
「ああ、そうだな」
僕はまだ絹子から目を離せず、後を向きながら返事をした。
部屋に戻ると、疲れが押し寄せた。これは死体を見たことによる疲労感だろうか。
桜を見て窓から日光を浴びる。心地よいものだと思う。この館にも徐々に慣れてきた。
だからこそ殺人が起きたという生々しい真実を認めたくないのだ。
「焦れったいなあ」
廉太郎は不満そうに言った。
「人が死んだんだぞ!しかも殺されたんだ。なのにどうしてみんなあんなに呑気なんだ。死体の旦那様は部屋から出てこないし、淳二という男は現実逃避。使用人の女も平然としてるし。君ぐらいはもっとショックを受けてくれ」
「何が不満なんだ、廉太郎。」
探偵の出る幕がない!と言った。
「探偵?」
そうか。彼は探偵小説が好きだったのを思い出した。館の中で起こった殺人。ミステリー好きには堪らないかもしれない。
「こうやって殺人が起きたときは探偵が犯人を推理するだろう。なあ、ワトソン君」
「なんで君が探偵役なんだ。まあ、それはいい。僕も一つ乗ってやろう。」
それでこそ、と言い楽しそうにうなずいた、
「それで推理は」
よくぞ聞いてくれたといわんばかりに満足げな顔をした。
あまり、この美しい館の中で殺人がどうのこうのという話はしたくないのだが。
「まず死因は毒殺だろうと思う」
「まあ、それは確かに。見た限りは外傷はなかったし、着物も綺麗に整えられていたからな」
「まあ絶対にそうとは言えないがな。仮定だ。次に、彼女は靴を履いてなかった」
確かに、純白の靴下が露になっていたと思う。顔ばかり見ていて意識していなかったとは、言えない。
「つまり?」
「絹子さんは家の中で殺された。そして外まで運ばれたということだ」
廉太郎は核心をつくような素振りで言った。
「なるほどなあ。でも死体を外まで運ぶ意味って」
ない…なあ、と彼は意気消沈した。
「う~ん、じゃあなんで靴履いてなかったのだろう」
「それだけじゃない。なんであんな所で殺されたんだ」
密室殺人というのは聞いたことがある。被害者を部屋で殺したあと、外からは入れないようにして他殺だと思われないようにする、ということだ。だが、今回は逆である。殺されたのは家の目の前、しかも庭の真ん中だ。
隠蔽も出来ていないしすぐばれてしまう。
いや、ばれること目的だったのか。廉太郎の推理が正しければ、絹子の死体は室内から運ばれたということになる。できるだけ早くばれるようにあえて目立つ場所に置いたということか。
「なあ、廉太郎。死体をばれやすくするために死体を運んだということはないか」
「なんでそんなこと」
「結婚式を中止にするために」
そうか!と廉太郎は目を見開いた。
「いやあ、いい助手を持ったなあ。それはあるぞ。ということは犯人はこの家の『警察を呼ばない』という性質を知っているということになるなあ。そうすると怪しいのは…」
「僕たち以外全員だ。」
「そっかあ。じゃあその中でアリバイを確認していこうじゃないか」
だんだん楽しくなってきてしまった。
「まず、淳二の父親、秋声。この人は車椅子だと言っていた。なら、あそこまで運ぶことは出来ない。よって犯人じゃない」
「本当は足が使えるけど犯人じゃないと思わせるために車椅子を使ってるのかもよ。殺した人は秋声さんで運んだのは別の人という可能性もある。」
「ああいえばこういう」
不服そうだ。
「推理ってそういうものだろ。あらゆる可能性を考えていくのが探偵の役目じゃないのか」
「ああ、うるさい助手だ。」
「うるさくない。それから怪しいのは階段を下りる途中ですれ違った淳二さん。」
確かになぜそこに居たのか。疑問に思うところである。
「それから絹子さんを運んだということはそれなりの力があったと言うことになる。力があるといえば角島さんだよ。あの人、絹子さんの死体をひょいと持ち上げて地下まで運んでいったぞ」
確かにそれはありそうだ。角島という女だけは絹子を物理的に運べることが証明されている。
「あと、現場に現れなかった春樹という男も本当にショックで出られなかっただけなのか。薫子という人も潔白は証明されない」
「つまり、現状では絞れないってことだな」
二人同時にため息をついた。
「探偵ごっこも難しいものだな」
そうだね、と適当に相づちを打った。
確かに今のままでは証拠が少なすぎる。本人たちに尋問してアリバイを確かめるわけにはいかないし、指紋を取って調査することも出来ない。探偵をするのに、学生で来客という立場では全く太刀打ちできないのである。
「犯行時刻はあ。僕が館に着いたときには死体が無かったのを確認したから、館に着いた3:30から死体を見た4:10の間だな」
「その間のアリバイかあ」
まあ、八方塞がりである。分かるわけがない。僕は窓の外を眺めた。音は聞こえないが桜の枝がぐらぐら揺れているのを見て風がふいているのだと思う。こう見ると、死体があった場所も隠れている。どうやら、風力や風向によって桜が揺れ、かなり視界が遮られるようだ。そこでふと気がつき、あ、と声を出した。
「僕達が館に来たときは死体は無かったよなあ。僕はそう記憶しているけど」
「ああ、人が倒れていたら気が付くだろうからな」
面倒臭そうに言った。
廉太郎はもう本を開いている。折角探偵ごっこが盛り上がってきたというのに。邪魔するなよと言わんばかりだ。
「でも、桜に隠れていたら人が倒れているとも分からない」
顔を上げた。ようやく興味を持ってもらえたようである。
「何が言いたい?」
「あの死体は、もっと前からあったのかもしれない」
「この桜が死体を隠していた、というのか」
ああ、と返事をした。桜が死体を隠す、恐ろしい表現である。絶対的な華やかさ、平穏さを放つ美しい桜。その裏に何かを隠しているというのか。
「この桜は、何かを隠すためにあるのかもねえ」
もう彼の意識の半分は本の中だ。適当に相槌を打ったのだろう。ただ、僕は耐えられない吐き気と目眩を抱え始めていた。
桜が、この屋敷が、何かを隠している。
桜だけじゃない。ここの住人も全員、風にあわせて揺れる桜のように事実を覆い隠しているのかもしれない。
荘厳で、重厚で、雅やかなこの館に恐ろしい何かが隠されている。
楽しそうに本を読み始める廉太郎の横で僕は静かに戦慄し、この館にいることを心底恐ろしく思っていた。
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