空染と星撒

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一日の終わり。 最後の仕上げだ。 「朱色をくれ」 橙の甕を返しながら言う。 背の高い葦の間から小さな手が伸びて、甕を受け取る。 「夕焼け、これ以上赤くするのですか?」 「あと少し」 この夕焼けの濃さを。 どれほどの人が見るか分からない。 でも。 「何かの、前触れのような空ですね」 色水を用意する汲妹(クミメ)は、ふたつに高く結ったお団子頭をかしげる。 「誰かの背を押すよう」 「朱色が大事なんだ」 恨みも嫉妬も怒りも混ざらない。 純粋な闘気。 「朱色を作るのは大変なんです。  大事にね」 汲妹が扱う特別な染料。 世界を染めることができる。 どんなものも染まる。 扱いは慎重に。 慎重に。 空を染める。 空を見る人の心を染める。 「明日も使うだろうから、  朝のうちにまた汲んでくれ」 仕事を増やされ、汲妹はふくれる。 それでも、最終的には空染に従わざるを得ない。 天界から昼を任されているのは空染なのだ。 単なる助手の小娘が口を出してはならない。 「はい」 空染は、手を抜くということを知らない。 額に汗を浮かべながら、ひたすらに池を睨み続ける。 いつもいつも、たった一色、ほんの一滴の手間さえ惜しまず染める。 その一滴が、全天に息を呑むような仕上がりを生む。 見入ってしまう。 数刻ののちには、また違う空に染め直すというのに。 甕を置き、朱色の筋を浮かべた水面に息をつく。 その背後から。 「交代だ」 兄弟子の星撒(ホシマキ)が来た。 濃紺の作務衣。 色白の顔。 目の下の濃い隈。 どれも夜を染める者の証だ。 そして、社の主の証の数珠。 師匠の後を継いで、一年で随分それらしくなった。 「今日はまた、随分鮮やかにしたな」 朱色。 橙から薄桃色。 藤色。 鮮やかなグラデーションに。 目を細めたのは一瞬。 「汲妹、黒」 その一言を合図に。 夜が始まる。 汲妹が差し出した甕。 夜の黒だ。 慣れた手つきで傾ける。 鮮やかに、繊細に染まっていた夕焼け空は。 その反対から夕闇に塗りつぶされていく。 刻々と池は黒く染まり、夜の帳が降りて。 真っ暗闇にならないように、星撒はそこへ、深い藍色を少し足して。 それから、汲妹が差し出した金銀の星屑を。 ひと掴み。 バサリと撒いて。 銀河を描く。 そして櫂を使って。 空を。 ゆっくりと回す。 星々が。 静かに巡る。 「おやすみ、人間たち」 星撒は、こうして夜空を作ったら。 美しい正円の池のほとりに佇んで。 目覚めた空染が朝を染めに来るまで。 1人でずっと眺めている。 吸い込まれそうな夜の色に、煌めく星の礫。 星撒の描く空を見たら、人間たちは、その美しさに恐怖するだろう。 「汲妹もお疲れ様」 「はい、失礼します」 手を合わせて頭を下げ、汲妹は葦をかき分けて帰っていく。 「あんまり汲妹を困らせるなよ」 先程のやりとり、聞かれていたらしい。 「わかったら早く寝れ」 星撒はそう言ってしっしっと手を振る。 空染は、星撒の仕事を見ていたいのに。 手伝いたいのに。 こうして追い返される。 背を向けた空染に。 「おやすみ」 かけた星撒の言葉には答えない。
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