おくすり

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おくすり

 20XX年2月4日。雪が微かに積もってきた。  今日は「おくすり」が日本で解禁されて丁度5年の日だ。各々の家でオードブルでも買って、この祝福すべき日を存分に楽しんでいるだろう。街の雰囲気も何処か浮かれていて、通っているコンビニでも値引きが実施されていた。  僕は道に転がっている空き缶を思いっきり足で潰して蹴飛ばした。中身が入っていたらしく1本5万円のジーンズがコーラでびしょびしょになったが、別にどうでも良かった。自己嫌悪が日に日に悪化していく今、多少汚れようが一向に構わない。寧ろ自分がいかに矮小で馬鹿な人間なのか証明が出来て嬉しい位だった。  僕はTシャツの胸ポケットに入れてある「おくすり」を一瞥して、すぐに仕舞った。カプセル状で少し灰色がかっているそれは、5年前に政府が国民に一律で配布した物だ。  「おくすり」と呼ばれるこの錠剤は元々裏の世界で流通していて、普通の人間が手に入れる事は不可能に近かった。麻薬よりも希少で、覚醒剤より高価なので欲しがる人と流通量が釣り合わないのだ。それに加えて政府もこの危険性に気づき、危険物認定して取引を禁止した。  そんな物が今や、世界の9割近くの人が服用済みと知れば驚くだろう。最初にこの薬の流通を許可したのがアメリカかロシアか知らないが、先進国の内の1国が「おくすり」を解禁して、そこからの流れは速かったと記憶している。「誰でも幸せになれる魔法の薬」といかにも危険丸出しな宣伝文句を謳って、安価で売られるようになった。  日本もそんな世界の煽りを受けて、部分的な解放を余儀なくされた。政府は希望者のみにこの薬を配布した。  希望者は日本の総人口の、8割強いた。  何故こんな危険物を世間は認めたのか、僕には皆目検討もつかない。無農薬栽培かどうかトレーサビリティで入念に確認する一般人は沢山居ると言うのに。  インフルエンサーが誤った情報を流し、それを一般人は信じると言った負のループも相まって、薬は人々の胃の中に吸い込まれていった。  効能はただ1つ。ドーパミンやらエンドルフィンやらが過剰に分泌される様になり、多幸感が一生続くのだ。つまり、笑顔になれる。それも一生。 コンビニの店員も満面の笑みで接客をしている。親子連れも喪服を着た中年も老後の未来を憂う高齢者も皆、目尻を下げて笑っている。その様子は宣伝通り、誰でも幸せになれたと言う事だろう。  親が死んだ時も、自分が刃物に刺されても、老衰で死ぬ時も、笑顔のまま。  喜怒哀楽は全てポジティブな感情に昇華される。 、それがこの錠剤、「おくすり」の効能だ。
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