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僕は片手しか無い手袋を右手に装着して、歩き続ける。人々が僕に注目しているのが分かる。左手にあるべき手袋が無いからじゃない。僕の顔が、笑っていないからだ。いつもなら笑顔を演じようとするのに、今の僕はしかめっ面を全面に押し出して大地を踏みしめている。
ふと足が冷えて、僕はベンチに座ってさっき浴びたコーラを拭き取ろうとハンカチを取り出した。寒気、というより痛みが足を覆っている。強がりも続ければ毒にしかならないのだ。
周りを見渡せば遊具が散在していて、田舎らしい、寂れた雰囲気の公園だった。元々都会に居た僕にとってこの風景は何年経っても慣れない。裕福に身を浸しすぎた結果だと思えば、鬱症状も悪化するような気がして悲しくなる。
僕はどうして「おくすり」を服用しないのか、ずっと思考を続けている。服用すると寿命が縮まるとか脳が萎縮するとかそんな副作用は無い。自分が抱えている鬱も悩みも罪も全て消えて幸福に上書きされる。
幸せって何だったっけ?
意味の無い問いが脳でリフレインしている。
太陽が沈み始めている事に気づいた時、僕の目の前に1人の女性が立っていた。買い物袋が地面に落ちて、中身が散乱している。
僕は咄嗟に拾おうと立ち上がって、女性の顔を瞳に映した。
「……嘘だ」
女性は、泣いていた。それは幸福とは似つかわしくない顔で、でも僕は美しいと思った。「おくすり」を服用していない人間。
僕は自分が薬を飲まなかった理由をようやく理解出来た。
「……初めまして」
目の前にいる女性と、この感動を分かち合う為に服用しなかったのだと、僕は本気でそう思えた。
ほんとなんて馬鹿なんだろうと自分でも思った。でも思ったんだから、仕方ないだろう。
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