2 イレギュラー発生

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2 イレギュラー発生

 午前七時三十二分発の電車。五番乗り場の車両に乗って三駅。  駅の北口から出てすぐのコンビニでコーヒーと鮭のおにぎりを購入。徒歩で大学に到着するのが八時二十分。  一限の始業前に休憩室の窓際で、中庭を眺めながらおにぎりを食べる。八時四十分に講堂へ行き、授業受ける。  昼の休憩は十二時きっかりに入り、ひとりもしくは夏川と過ごす。  午後の授業再開は午後一時。午後四時過ぎまで講義を受けたら美術サークルに顔を出し、大学を出るのがだいたい七時。  毎朝立ち寄るコンビニで夕食用の弁当とプライベートブランドの安めのお茶を購入して帰宅。幕の内弁当が定番。ない場合はミートソース。それもないときは値段の落ちた安い弁当を買う。  学校がない休日の日は、大学近辺をぶらりとして時間をつぶす。夕方からの行動は平日と変わりない。  これが俺のルーティン。イレギュラーなるものはまず発生しない。というよりも、むしろ変化を避けて通っている。    こういう生活をしているから、彼女ができるというイベントが発生しても当然長続きしない。最初は相手が自分に合わせてくれるけど、しばらく経つと弾んでいた会話のラリーもなくなり、言葉自体も乏しくなっていく。そのうち彼女のほうから「疲れた」と切り出され、ひとりに戻ることになる。  理由は俺があまりにも『俺』だから。これまで片手くらいの人数は付き合ってきたが、その誰もに同じことを言われた。『あなたは私に少しも合わせてくれない』と。  合わせないわけじゃなく、合わせられないんだと説明してもまったく納得してくれなかった。それは単にわがままを言っているだけだと。    そんなことを思い出すたびに、一ノ瀬さんのことが脳裏に浮かんだ。相手に合わせて自分を変えられる人。いろんな色に染まれる人。白いカンバスみたい。そんな彼女のことをほとほとうらやましく思っている。憧れと言ってもいい。  八時三十五分すぎ、休憩室。中庭に一ノ瀬さんの姿を見つける。彼女は毎朝、ここの植物に話しかけにくる。どうやら花や木といった自然が好きらしい。大学に入学して二年間、ずっと彼女を追っていたから知っている。先週の月曜日は来なかったのでどうしたんだろうと心配もしたが、昼に服装が違っていたのを知って、汚れることを気にしたのかもしれないと感じた。  今日はそのときと同じ白いワンピース姿。彼女は白い服がとても似合う。色白だし、線も細いからだろう。化粧も一時期より派手にはなったけど、はっきりとした目鼻立ちの彼女にはナチュラルなメイクよりも合っている気がする。どのみち美人であるのは変わらない。以前よりもずっと目を引くようになった。  昨夜の雨で地面がぬかるんでいそうだから、服が汚れなければいいなと心配しつつ彼女を眺める。その背後に見知らぬ顔の女子が現れた。  あれ? と思ったときには事件は起きていた。後ろから近付いてきた女子が中腰で植物に話しかけている彼女の背中を思いっきり押したのだ。彼女は「キャッ」と短い悲鳴を上げて、植物を踏むように四つん這いに倒れた。俺はすぐに休憩室を飛び出し、中庭に向かった。 「一ノ瀬さん!」  すでに女子の姿はなく、倒れた一ノ瀬さんがいるだけだった。俺の声に振り返った彼女の表情を見た瞬間、それ以上声をかけることができなかった。棒立ちのまま彼女を見る。半泣きの顔で必死に笑顔を作って「転んじゃった」と舌を出した。 「転んじゃったって……突き倒されてたじゃん」 「見てたんだ」 「ごめん……」 「ううん」と彼女は首を振りながら、ゆっくりと立ち上がった。白いワンピースには踏んだ植物だろう、緑色の飛沫やぬかるんだ泥が飛び、裾は茶色しみができている。 「ざまあないよね。こんな日に白なんて着てきた私が悪い」 彼女は泥を払った。汚れが余計に広がる。 「とりあえず服、なんとかしよう! 着替え、持ってる?」 「残念ながら」と彼女は肩をすくめた。俺は急いで上着を脱ぐと「よかったら」と差し出した。 「俺の匂いがついていて嫌かもしんないけど、とりあえず着替えるまで」   彼女は一瞬、ぽかんと口を開けた。俺の顔と上着を交互に見た後で「ありがとう」と上着を受け取り、肩から掛けた。  彼女が上着を受け取ってくれたことにホッと息をついた瞬間、ぶるっとズボンのポケットが震えて思わず背筋が伸びた。スマホだ。急いで取り出して確認すると、夏川からだった。いつもの時間にいないから、休みなのかと心配してくれたのかもしれない。スマホを握ったまま一向に出ようとしない俺に「大丈夫だから行って」と一ノ瀬さんが言った。 「一ノ瀬さんは?」 「私は着替えを買ってくる。戻るついでにクリーニングに出してくる。染み抜きでどこまでとれるかわかんないけど」 「それなら部室にある俺の着替え貸すよ。汚れたまんまじゃ店も入りにくいだろうし」 「でも……」 「上着と違って、ちゃんと洗濯してあるよ」 「そうじゃなくて……講義、出られなくなっちゃう」  ほら……と彼女はスマホをちらりと見た。スマホは相変わらず震え続けている。 「田高君、一年生の頃からずっと無遅刻無欠席だから」  彼女が申し訳なさそうに目を伏せた。彼女がそんなことを知っているなんて思わなかった。夏川にでも聞いていたのかもしれない。あいつからすると俺は『クソまじめで融通の利かない堅物男』らしいから。  そんな俺が講義をさぼろうとしている。起こりえないイレギュラーだ。そして俺は、俺自身もびっくりするようなことを口にした。 「じゃあ、一ノ瀬さんも講義さぼってよ」  彼女は「え?」と小さく驚いて眉をひそめた。 「一限だけ、俺につき合って」
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