4 君色に染まる

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4 君色に染まる

「今度はさあ、クサギの実でウールを染めるの、一緒にやってほしいんだよねえ」  午前七時三十二分発の電車。五番乗り場の車両に乗って三駅。駅の北口から出てすぐのコンビニでコーヒーと鮭のおにぎりを購入。徒歩で大学に到着するのが八時二十分。一限の始業前に休憩室の窓際で、中庭を眺めながらおにぎりを食べる。その隣で同じように鮭のおにぎりをほおばりながら、彼女が言った。 「またなんでクサギの実? たしかにきれいな青だけど」 「ん? ヒロに似合いそうだなと思って」 「俺?」 「なんかこう、寒色系も試してみたいなって思って。でもねえ。似合いすぎてライバル増やしちゃいそうで怖い気もするんだけど」 言って彼女は白い歯を見せて笑った。  高価なワンピースを染めたことを『物の価値がわからない女』と罵られたことで、エリートサラリーマンと別れた彼女は今、ヒロ――と、俺、田高浩紀(たこうひろき)を愛称で呼ぶ。彼女はいまやすっかり草木染に魅了され、こうして一緒に話をするようになっていた。  今日の彼女のシャツは蘇芳色(すおうしょく)。黒みかかった紫が気に入っているらしい。それは俺の影響だと彼女は笑う。対して俺は、白いシャツに黒いパンツ。アクセントにラック色のストールを巻いている。彼女が選んだ今日の色。  ただ残念ながら、俺は彼女とつき合っているというわけじゃない。お互いに憎からず思っているのはたしかだけど、もう少し、恋人という距離ではなく、友人として共有する時間をちょっとずつ増やしていっている最中だ。急激に相手に染まるわけではなく、少しずつ、少しずつ、草木染のように長い時間をかけて、お互いの色に染まっていこうと……そう提案してくれたのは彼女だった。  俺はその提案に乗った。急激な変化はきっと俺自身もついていけなくなる。彼女との時間を大事にしたい。そう思ったからだ。 「じゃあ、今日の帰りに材料見に行く?」 「行く、行く!」  彼女はキラキラと目を輝かせて首を縦に大きく振った。「ありがとう」と言って、今にも俺の首に飛びついてきそうな彼女の顔の前に手を出して、顔をそむけた。 「ヒロ?」 「ごめん……その……」  彼女がきょとんとした顔をするのがわかる。火がついたみたいに顔が熱い。心臓が今にも口から飛び出してきそうで、残ったほうの手で口元を覆った。 「俺……梨美のこと、好きになりすぎるわ」  そんな俺の手を彼女は両手でぎゅっと握ると「ヒロ」と呼んだ。思わず彼女を見る。見てしまったことを後悔する。 「じゃあ、もっと私に染まってみる?」  彼女はかわいらしく小首を傾げながら、いたずらな笑みを浮かべてみせた。 「もう染まってる」  俺の心は完全に君に染まってると胸の内でつぶやきながら、俺は彼女の手を握り返した。 【了】
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