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五
座敷童が部屋に現れるようになってから、変わったことがある。ほんのすこしだけ、世界がよく見えるようになったのだ。
これまでの俺ときたら、とにかく気力というものに欠けていた。大学と部屋との往復。必要にかられて、たまに買い出しにスーパーに寄る程度――それも、買うのはいつも決まったものだけだった。
大学に行ったところで、最低限の講義だけ受けて、それだけ。ろくに誰かと話もせず、そして他には、なーんにもやる気が出ない。まったくもって、気力ゼロの毎日。ほとんど死体同然だった。
ところが、そんな俺にも言葉を交わす相手ができた。
「のりしおが食べたい」
ある日、座敷童がそう言った。いつも食べていたポテトチップスうすしお味のパッケージ裏に書かれていた、シリーズ商品の紹介を見て食べたくなったらしい。
「食べたい!」
「……そうだなぁ、買ってくるか」
と言った後、座敷童に出会う前の俺であれば、十分と経たずに口にした言葉のことなどきれいさっぱり忘れ果てて、ただ時間をすり潰すだけだっただろう。
だが今の俺は、今から買いに行ってみよう、という気になっていた。しかも、その気分に体が付いてきていた。日々の繰り返し以外に、明確に何かをしようと思ったのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
立ち上がり、上着を羽織り、部屋を出る。億劫極まりなかったはずのその動作は、あっという間に終わっていた。
「いってらっしゃい!」
五月を迎えて、東京の平均気温はぐんぐん上がってきている。短い春の終わりは、もう目前に迫っているらしかった。
うっすら汗ばむほどの陽気に、これは上着は要らなかったか、などと考えながら、いつものスーパーに向かった。そしていつものスナック菓子の棚を目指して、そこでいつも買わない味を探す。すると、自分が食べたことがある菓子なんて、棚全体から見ればごくわずかでしかないことに気付いた。
……そんなことにさえ、今までは気付いていなかったのか。
のりしお味はすぐに見つかった。だけど棚の端から端まで舐めるように物色して、興味の湧いたものを片っ端から買い物かごに突っ込んだ。
無気力故にほとんど使ってこなかったぶん、自由に扱える金には余裕がある。
店を出たとき、俺の左手にぶら下がっていたビニール袋はぱんぱんに膨らんでいて、持ち手が俺の手に食い込んでいるくらいだった。
「なにこれ! すっげーじゃん!」
ひいこら言いつつ汗をかきながら帰宅した俺を見て、座敷童は快哉をあげた。その無邪気な笑顔を見たら、自分の頬も緩んでいた。
久々に笑った気がした。
「……ありがとうな」
「へ? なんでおまえが言うんだよ。それより早く食べよーぜ!」
興奮した様子で、どんどん袋の中身を取り出していく座敷童の姿を見ながら、俺は。
俺はなんだか、救われたような気がしていたんだ。
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