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六
街を歩いたときに見える景色が、全く異なっている。これもきっと、座敷童のおかげなのかもしれない。
生活の中に自分以外の誰かがいる。ただそれだけのことが、心の栄養になるのだろう。余裕が加わるだけで、視界というやつはずいぶん広くなるらしい。
「……こんなに、いろんなものがあったんだな」
ぼそりとこぼした呟きが聞こえたのか、ハゲたおっさんがすれ違いざまに怪訝な目を向けてきた。座敷童が来る前の俺なら、たぶん、そんなふうに見られたことにすら気付かなかっただろう。
これまでの俺は、視界に入っているもののうち、一割も見えていなかった。ほとんどがただの背景でしかなく、すれ違う相手のことなんて全く気にかけていなかった。
だけど今は、違う。誰かと温度のある会話を交わすことで、日々がただの繰り返しではなくなりつつあった。
実際のところ、俺は自分が五月病にかかっていたことに、このときまで気付いていなかった。
回復して初めて気づくとは、なんとも恐ろしい話だ。そして同時に湧き上がってくる、俺をここまで引っ張り上げてくれた相手への感謝。
「座敷童様様、だなぁ」
「へぇ、座敷童? そいつは良いねぇ」
ひとりごと――つまり、返答を期待していなかった呟きだったのだが、予想に反して応えるものがあった。背後から聞こえた中性的な声の主を探して振り向くと、そこには金髪の女がいた。細い糸目と薄い唇が印象的な、色白の女。中性的な顔立ちには、男装がさぞ似合いそうだった。
「座敷童ってのは幸運を呼ぶそうだ。手放しちゃいけないよ、お兄さん」
視線がぶつかり合うと、女の目と口がにんまりと弧を描いた。胡散臭い笑みと共に放たれた言葉も、やっぱりどこか胡散臭い。
だが胡散臭さ以上に、その姿からは何か異様な怪しさを感じる。
いや。
妖しさか。
「あの、もしかして――」
「おおっと」
俺の言葉を遮るように、すっと掌を向けられた。細い指先が、俺の唇の寸前で止まる。
「それ以上は、ここじゃあ口にしない方がいい」
ぐっと顔を近付けて――身長は、俺とさして変わらない――小声で俺に耳打ちした女は、すぐにさっと距離を戻すと。
「きっとまた会うからさ」
じゃあね。
ひらひらと手を振りながら、すっと雑踏の中に消えていった。人並みを縫って遠ざかる背中に声をかける間もない。あっという間だった。
「なんだったんだ、今の」
突然現れて、突然消えた。最後に呆然と見送った背中を思い出す。
長い金の後ろ髪が、ひとつ結びに垂らされていた。腰よりも長く伸びた金のひと房が、最後に見えたもの。
どうしてか俺は、その髪に狐の尾を重ねていたのだった。
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