26人が本棚に入れています
本棚に追加
開け放った窓からはさやさやと風が吹いて春のポカポカ陽気に響く教師の声はもはや子守唄だ。
進学校だというのにこの教師は板書が好きらしい。
黒板に向かって学習指導要項片手にカツカツと音を立てて公式を書いていく。解説する時ですら教科書から顔を上げない。生徒の理解を気にする素振りも見せない。
俺は遠慮なく大きな口を開けてあくびをした。
そのタイミングで俺の背中がツンツンされて、なんだとこっそり振り向いたら日南が困った顔をして上目遣いに俺を見上げてきた。
「すまん。ノート見してくれへん?」
「ん?」
転入したてでこの授業は災難だったな。
日南の席は急遽用意されたせいで隣が居ない。教科書こそあっても前回の続きをいきなりやられたらどんなに頭の良い奴でもキツイだろう。
俺は別に今の授業をなぞっておけばなんとかなる。
ノートなんかルーズリーフだから前回までのやつを貸してやっても支障無い。
「あー、ほれ」
「ありがとなぁ」
嬉しそうに笑った顔がやたら好みだったから別に構わないとひらひら手を振ってやった。
教師の声だけが朗々と響いて、さりさりと紙の上をペンが滑る音だけが聞こえる。
所々からあくびをかみ殺すような微かな呼吸音が聞こえて、皆やっぱり退屈してるんだな、と変に納得した。
カッカッカッと小さく秒針を刻む時計を見上げれば授業はまだ半分も残っている。
いくら公式を当て嵌めて問題を解くことがメインの数学だってもう少し説明しても良いだろうに、そこまで考えて考えるのを止めた。不毛だし、時間の無駄だから。
すぐ後ろから聞こえるさりさりという音に集中する。
日南が一生懸命ノートを写している音だろう。
やたらスピードが早いから写すだけ写して中身は後で理解するつもりなのかもしれない。そうしたら他の教科ノートも貸してやった方がいいだろう。
「?」
サッとリングファイルから今日の他の授業のルーズリーフを引き抜いて日南の机に置いてやったら声に出さない疑問符が聞こえた気がした。
すぐに意図を理解したらしい日南が本当に小さな声で礼を言った。
さりさり……
さりさり……
さりさり……
カッカッカッ…………
カッカッカッ…………
カッカッカッ…………
退屈な時間は過ぎるのが遅い。
でも、後ろから聞こえる一生懸命にノートを書き写す音が新鮮で、日南のペンの音に合わせて膝の上で小さくリズムを刻んだ。
「千春」
授業終了のチャイムと同時に机の上に貸してやったルーズリーフが置かれた。
ご丁寧に教科ごとに束にしてずらしてある。
「役に立ったか?」
「おー!助かったわ。他のもな」
「もうええんか?」
「全部写したわ。そこまで進んでなくて助かったわ。それに今のセンセほんまにこっち向かんからやりたい放題やったしな」
「やりたい放題て、ええ言葉やって思わへん?」
ニッて笑ってやったら一瞬ぽかんて八重歯を見せて口を開いたけど、すぐにあっはっはっ!て笑ってせやなって言った。
なんとなくだけれど、今俺の望む反応を探って最適解を返されたなって思った。
呼吸な。
ほんの少しだけ乱れたからそうなんだろうな。
俺は音に敏感でな。
呼吸や鼓動なんかは普通の音と同じくらいハッキリ明瞭に聞こえてる。
歩く嘘発見器だ。
子供の時はこんなん皆出来ると思ってたけど、そうじゃないって気が付いてからは一切悟らせないようにしている。もしかしたら日南にもそういう聴力過敏のようなものがあるのかもしれない。
たった一瞬で俺の雰囲気だのを読んで会話を繋ぐ最良の反応を打ち返してきてる。ただ単に物凄く勘が働くだけかもしれないけれど、どちらかといったらギフテッドレベルの何か特殊な能力持ちのような気がした。
例えば、最早頭の中を読んでるくらい卓越した観察眼とかな。
ちらりと見上げた日南は薄い笑みを浮かべて目の前に居る。
席に帰ればいいものを、わくわくしたような顔で俺を見下ろしてくるからなんだ?と目で問うてやる。
「千春ってええやつやんな?」
「はいそうですていう奴はヤバい奴やろ」
「そらそうやな。うん。で、お前ええ奴やな」
「だぁから……」
返事をしようとしたところでいつもつるんでいる奴らに取り囲まれて、話題は時期外れの転入生一色になってしまった。
ただでさえ転入生なんて珍しいからクラスの奴等も少し遠巻きにしていたけれど、俺が話してるもんだから警戒心を解いて好奇心を優先したらしい。
ふむ。
これが狙いか?
取っ掛りとして俺を利用したのか、単にノートが必要だっただけで俺が過大評価しているのか。
どちらにせよもう少しだけ二人だけで話してみたかったけど、口下手な俺が変なことをしでかさないで済んだと思うことにしておくか。
最初のコメントを投稿しよう!