体験談Ⅰ

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「あ。そろそろ時間だ」  突然、彼女が立ち上がる。その視線の先にある腕時計を恨めしく思う。  最近は舞台の稽古にバイトと忙しいようで、それでも合間に時間をつくってくれていることは感謝している。しかし、こうして本当に短い時間しか過ごすことの出来ない現状は僕としては不満だった。 「いつ家に来られそう?」 「わかんない。また、連絡するね」  急いでいるのか走り出した彼女の独特なフォームに、いつものことながら頬が緩む。内股のせいで膝から下だけが外側を向いてしまい、まるでお母さん座りのまま足をバタつかせているようだ。  公園の外で一度振り返ると、胸の前で小さく手を振る。僕が大きく手を振り返すと、彼女は満足そうに微笑みながら走っていった。 「……寒っ」  ジャンバーの襟元を合わせ、暖をとるように彼女が座っていた所に手を置く。まだ温もりが残っていたけれど、すぐに木造のベンチは熱をなくす。その瞬間を確かめると、やっと腰を上げた僕はゆっくりと歩き出した。  クリスマスムードが漂う街をすり抜けながら、毎年この時期は自分が土竜になった気分になる。頭上には温かな光が降り注いでいるのに、僕の場所までは届かない。自分だけが世間から除け者にされているような気持ちなる。しかしそれも、もう慣れた。  金がない故に行く宛ももない僕は真っ直ぐ帰路につくと、築六十年の我が家が出迎えてくれる。  下に二部屋。上に二部屋。計四部屋という小さな造りのアパートは、亀裂の入った灰色の壁に朱色のペンキが剥げたアルミの階段と見るからに年季が入っている。  タンタンと響く自分の足音を聞きながら階段を上ると、部屋のドアノブの穴に鍵を差し込む。ガチャリと施錠された音を合図に扉を開けると、キーッと錆びた金具の音が鳴る。  畳張りの四畳半のワンルームは狭いけれど風呂付きだ。最寄り駅から徒歩十分で、周辺にはコンビニや本屋や格安スーパーもあり便がいい。この条件で、家賃が二万円なんて僕にとっては最高の物件だった。  玄関でスニーカーを脱ぐと、殺風景な自分の部屋を見ながら思う。  ミニマリストなんて言葉が流行る当の昔から、僕は必要最低限の物しか持たずに生活をしてきた。  貰い物の卓袱台と敷き布団。あとはペンと紙さえあれば生きていけるだろう。  テレビは観ないから必要はない。料理はしないから冷蔵庫も必要はない。  しかし、自分は良くても他人を呼ぶにはいかがなものかと考える。特に女性。自分の愛する彼女ならば尚更だ。  薄い壁は隣の住人の生活音が丸聞こえ。立て付けの悪い窓は、風が吹くだけでガタガタと揺れる。掃除はしているとはいえ、殺風景な部屋は見た目も構造からしても綺麗だとはお世辞にも言えないだろう。
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