体験談Ⅱ

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 影は鳴くこともなく微動だにすることもなく、ただこちらを見つめていました。その静けさに恐怖を感じた私は逃げるように布団を被り、きつく目を閉じました。  どれぐらいそうしていたのでしょうか。気づくと眠ってしまったのか、いつの間にか朝になっていました。  布団から顔を出し恐る恐る箪笥の上を見てみると、そこにいた影は消えていました。当然、物も置いてはありません。  私は昨夜のことを早く誰かに話したくて、布団から飛び起きると真っ先に母に全てを話しました。  しかし母は私の話しを聞いても驚くことはなく、むしろ穏やかな顔をしていました。 「シロちゃんが会いに来てくれたんだね」  その言葉に、私の脳裏には一年前に体験した悲しい出来事が甦りました。  雨の日。ごみ捨て場に捨てられた生後間もない子猫。白い毛色からシロちゃんと名付け家に連れて帰ったあの日。衰弱が酷く病院に連れて行っても助けることができなかった。  共に過ごした時間はたったの一日。  だけどこの腕の中で確かに感じた小さな温もり。そして静かに消えていった命の温もり。  私にとって生まれて初めて「死」を知った体験でした。  それは大人になった現在でもハッキリと覚えています。  怖かった。悲しかった。そこから生きている物は必ず死ぬことを知りました。ならば、生きるとは何?死ぬとは何?幼いながらに考え続けていました。  母は思い悩む私を心配したシロちゃんが、会いにきてくれたのではないかと言ったのでした。   「でも、子猫じゃなかったよ?」  昨日の影は確かに大人の猫の形をしていました。私の知る小さな身体ではありません。 「天国で大人になった姿を、見せてくれたんじゃない?」 「……大人になった」  その言葉には何の根拠もありません。しかし妙に納得してしまったのは、私の心の中に「ある後悔」が消えずに残っていたからです。  __子猫のまま死なせてしまった。大人にしてあげられなかった。  誰にも口にしたことのない後悔を、シロちゃんだけはわかっていたのでしょうか。  だから影となり誰にも気づかれぬように、静かにジッと私だけを見つめていた。  __大丈夫だよ。ちゃんと、大きくなったから。ちゃんと、大人になった姿を見て?  私はその場で目を閉じると昨夜見たばかりの影のことを思い出しました。不思議なことに小さかったはずのシロちゃんとその影はピッタリと重なり白い光の中で佇む姿が見えたのです。  ……そっか。大きくなったんだね。  私は胸に手を当てるとシロちゃんに「ありがとう」と、心の中で伝えたのでした。  それからシロちゃんが現れることは一度もありません。  しかし、この体験は二十年以上経った今でも母と話すことがあります。その度にシロちゃんのことを思い出しては、そっと心の中で手をあわせています。  幼い私に生きている命の温もりと、消えていく命の刹那を教えてくれたシロちゃんを私は永遠に忘れません。
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