体験談Ⅲ

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 今日のお会計は折半にしてもらおうとしたけれど、そんな金もない僕は「出世払い」という彼女の言葉にまた甘えさせてもらった。いや、きっと最後まで彼女に甘えさせてもらうのは目に見えている。  いつも、よれよれの服を着て薄いジャンバーを羽織り履き潰したスニーカーを突っ掛けてやってくるみすぼらしい男に金を払わせる奴はなかなかいないだろう。  それが友達ならばわかるが相手は小綺麗な年上の女性だ。払うのが当然だと思っているのだろう。しかし彼女の振る舞いは、嫌味がない。むしろ僕に、気を遣わせまいと言葉を選んでは颯爽とお支払をすませる姿に憧れを抱いてしまう。  性別は関係ない。僕の三十代は嘉吉山のようなスマートで格好良く優雅な人間になれていたらいい。新しい目標に想いを馳せていると、ポケットに入ったスマホが震えた。  ちょうど喫茶店を出てアパートに着いた所だった。部屋に入り靴を脱ぎながらスマホを確認すると美恵子からのメールだった。  “__明日、家に行けることになったよ”  すぐに「泊まり」かどうか返信する。「うん」と一言返ってきて、僕は思わずガッツポーズを決める。  ここ最近、ずっとおわずけをくらっていた。忙しいのも理解しているし彼女の邪魔はしたくないと黙っていたが、本当は欲求不満で爆死しそうだった。当然、そんなことは彼女を目の前にしては言えない。  しかし僕にとって美恵子は初めての彼女だ。二十八年生きてきてやっと出来た可愛らしい念願の彼女なんだ。  今までずっと、僕は恋人のいる奴らを指を咥えて眺めてきた。これはきっと、神様が与えてくれたご褒美。ならば素直に貪欲になって何が悪い。猿のように盛ることもできない高校生活を送ってきたのだから、この歳で思い切り発散したい。 「よし!」  僕は畳の上に倒れ込むと大の字をかく。やっと明日、美恵子とゆっくり過ごすことができる。一度大きく息を吸うと吐き出す。そうして逸る気持ちを抑えながら、目を閉じると疲れているのかすぐに眠りについた。  目覚ましによって二十三時に起こされると、何飯かわからない食事をとる。コンビニから調達した期限切れのパンは普通に旨かった。貪るように一気に食べ干すと、徒歩五分以内の場所にあるバイト先に向かう。  バックヤードで着替えていると内田君がやって来て、今日の出来事を話し出す。自慢話も多いけれど、最後には必ず笑えるオチをつけるから嫌味には聞こえない。そんな彼の話術にはいつも関心させられる。短い話題の中に起承転結を組み込むなんて僕にはできない。きっと内田君のような人が天性の小説家タイプなのだろう。
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