究極のひとくち

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中学に入ると、俺は独自に筋トレをはじめた。 運動部の雰囲気が苦手で、スポーツにも興味がなかったので、自宅で鉄アレイを持ちあげたり、スクワットや腕立て・腹筋をしたり、「よわしが筋トレしてる」とからかわれるのが嫌だったので、秘密裏に特訓した。 そして中二、中三、と成長するにすれ、背も伸びて華奢な面影はなくなっていき、高校デビューするころには、だれも「よわし」なんてあだ名で呼ばれていたとは信じられないような、たくましく引きしまった筋肉ボディを手に入れていた。 だれも俺の名前をネタにする者はいなくなった。 とはいえ、食べるものは母の作る食事と給食が基本だったし、本格的な食事制限やプロテイン・ジム通いは取り入れられなかったから、まだ素人の体だ。 俺は社会人になっても、筋トレをつづけ、さら­にボディメイクに本格的に打ちこむようになっていった。 ボディビルの大会で優勝できるのは最高の栄誉だし、うれしい。みな頂点を目指して日々鍛錬してい­る。 だが、ボディビルという競技のおもしろいところは、陸上で一位をとるとか、野球やサッカーで優勝するとか、勝つか負けるかで、それまで積み­あげてきた努力の価値が、他人から見てガラッと変わってしまうものとは、あきらかに違うことだ。 たとえば、なにかのスポーツでベスト8に入っても、「がんばったね」の言葉に(惜しかったね、残念だったね)のニュアンスが入ってしまう。 だが、ボディビルコンテストで8位の者だったらどうだ。 彼が、そのみごとにはちきれんばかりの筋肉美を、Tシャツ姿で披露して歩けば、通りすがりの人々は驚嘆して二度見するだろう。 そこに、残念だったね、はない。 何位だとしても、筋肉は筋肉だ。つねに自分とともにあり、物理的な腕力と、常人離れした強そうな見た目を、自分にあたえてくれる。決っして、こいつは「弱そうだ」と見た目であなどられることはない。 これは、「よわし」と呼ばれていた少年時代と、ゴリゴリマッチョの今、まわりの人間が自分にむける「目」の違いを、両方見てきたからこそわかるのだ。 武田真治は言っていた──『筋力は裏切らない』と。 これは、どこかの登山家の『そこに山があるから』という言葉に必適する歴史的名言だと思う。
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