13人が本棚に入れています
本棚に追加
中学に入ると、俺は独自に筋トレをはじめた。
運動部の雰囲気が苦手で、スポーツにも興味がなかったので、自宅で鉄アレイを持ちあげたり、スクワットや腕立て・腹筋をしたり、「よわしが筋トレしてる」とからかわれるのが嫌だったので、秘密裏に特訓した。
そして中二、中三、と成長するにすれ、背も伸びて華奢な面影はなくなっていき、高校デビューするころには、だれも「よわし」なんてあだ名で呼ばれていたとは信じられないような、たくましく引きしまった筋肉ボディを手に入れていた。
だれも俺の名前をネタにする者はいなくなった。
とはいえ、食べるものは母の作る食事と給食が基本だったし、本格的な食事制限やプロテイン・ジム通いは取り入れられなかったから、まだ素人の体だ。
俺は社会人になっても、筋トレをつづけ、さらにボディメイクに本格的に打ちこむようになっていった。
ボディビルの大会で優勝できるのは最高の栄誉だし、うれしい。みな頂点を目指して日々鍛錬している。
だが、ボディビルという競技のおもしろいところは、陸上で一位をとるとか、野球やサッカーで優勝するとか、勝つか負けるかで、それまで積みあげてきた努力の価値が、他人から見てガラッと変わってしまうものとは、あきらかに違うことだ。
たとえば、なにかのスポーツでベスト8に入っても、「がんばったね」の言葉に(惜しかったね、残念だったね)のニュアンスが入ってしまう。
だが、ボディビルコンテストで8位の者だったらどうだ。
彼が、そのみごとにはちきれんばかりの筋肉美を、Tシャツ姿で披露して歩けば、通りすがりの人々は驚嘆して二度見するだろう。
そこに、残念だったね、はない。
何位だとしても、筋肉は筋肉だ。つねに自分とともにあり、物理的な腕力と、常人離れした強そうな見た目を、自分にあたえてくれる。決っして、こいつは「弱そうだ」と見た目であなどられることはない。
これは、「よわし」と呼ばれていた少年時代と、ゴリゴリマッチョの今、まわりの人間が自分にむける「目」の違いを、両方見てきたからこそわかるのだ。
武田真治は言っていた──『筋力は裏切らない』と。
これは、どこかの登山家の『そこに山があるから』という言葉に必適する歴史的名言だと思う。
最初のコメントを投稿しよう!