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あぁ、今日も疲れた。肩に掛けたカバンの持ち手が片方だけずれ落ちてしまったが、それを直す元気も持ち合わせていないくらい私は疲れていた。
つい五分前までプレゼンをしに会社の上司と取引先へ行っていたが、上手くいったためそのまま現地解散となった。会社に帰ってもいいし家に帰ってもいいと言われ、私は家を選んだ。上司の手前本来なら会社に戻るべきなのだろうが、安堵と疲労で集中できるはずもなく、明日早めに出社することと引き換えに直帰することにした。
午後五時半。いつもなら夜の八時や九時の日が沈んだ暗い時間に帰宅するので、まだ少しだけ明るいこの時間に帰宅するのはなんだか変な感じだった。風も涼しく、つい先日まで鳴いていたセミの鳴き声はもう聞こえない。微かに香る金木犀の香りが私に秋だと教えてくれていた。
早く家に帰ってベッドにダイブしたいという気持ちもあったけれど、早く家に帰るのもなんかもったいない気がして、疲れているというのに遠回りをすることにした。多分、心と体のバランスが合っていないんだと思う。身体は疲れているけれど、プレゼンに成功した心はスキップをしたいほどウキウキなのだ。その証拠に口元だけが緩くて口端が上がっている。
普段なら通らない河川敷を通って帰ることにする。波の立たない川は海の方へ静かに流れ、沈み始めた夕陽色に染まっていた。
――秋は夕暮れ。中学の頃国語の授業で暗唱させられた枕草子の一節がふと思い出された。春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。清少納言が「いい」と思う時間帯を書いた随筆作品だ。秋は夕暮れがいい。
オレンジに染まる空を、ただ眺めた。沈みゆく太陽をバックにカラスが三羽、羽をバラバラにはばたかせて遠くの山へ向かっていく。カラスもきっと家路についているのだろう。
「兄ちゃん待って! 早いよぅ」
「暗くなる前に帰らないと母ちゃんに叱られるから早く!」
後ろから走ってきた小学生くらいの兄弟に抜かされた。泣きだしそうな弟の手を取り小走りで帰っていく。そんな何気ない日常の背景にオレンジ色の夕焼けが差し込むだけで、特別な一日の終わりのような気がした。思わずスマートフォンを手に取ってカメラを起動する。この景色を奏多と共有したい。優しい色に包まれた兄弟の背中をパシャリと撮ると、メッセージアプリをタップして奏多とのメッセージ画面を開いた。しかし、手が止まる。
「……そうか、共有できないんだった」
私は独り言ちてメッセージアプリを閉じた。
綺麗な景色を見た時、面白い写真が撮れた時、楽しいことを体験した時。自分に起きた出来事を共有したい人がいることはとてもいいことだと思う。なにをしていてもその人のことを考えて、この出来事を隣で共有したい。私にだってそう思うくらい大切な人がいて、今だって撮った写真を送りつけようとしたけれど……
持っていたスマホが震えた。画面には『渡辺奏多』と表示されている。電話だ。
「もしもし?」
『もしもし。香織? まだ仕事中?』
「ううん。今日はもう終わったよ。どうしたの?」
『いや……別に用事ってわけじゃなくて……なんとなく声が聴きたくなったからさ』
「ははっ。なにそれ」
夕日の後ろには緑から黄色に変わろうとしている森がある。これらは段々と赤色に染まってゆくのだろう。この景色を奏多と一緒に見たい、と強く思う。
『香織。今なに見てるの? 教えて?』
「え……」
『この時間だと夕焼けかな?』
「あ、うん。そう、夕焼け」
『そっか。綺麗なんだ? どんな色?』
「えっと……温かいオレンジ、って感じかな。すごく綺麗だよ」
『いいねぇ』
奏多は明るい声でそう言うけれど、私には無理しているように聞こえて胸が痛い。
奏多は色覚異常という病気を持っていた。先天性ではなく後天性で、去年までは色の識別がちゃんとできていた。それなのに突然「リンゴが腐った色をしている」と言うもんだから冗談だと思った。私を驚かせたり笑わせたりすることが大好きな人だったから、またいつもの冗談だと思ったのに。
――色覚異常だって、そう診断された。
病院から帰ってきた彼にそう言われて、夢を見ているような気持ちになった。奏多はイラストレーターだったから、余計に悲しかった。
今でこそ本人は明るいが、少し前までの落ち込み具合はひどかった。ベッドから一ミリも動かずずっと布団をかぶって転がっていて、まさに塞ぎ込んでいたけど、クヨクヨしてても仕方がないと気づいたのか、少しずつだがまた絵を描き始めている。私はそれが嬉しい。だから今私が見ている景色を奏多と共有したいと思うけれど、どうしても泣いている奏多の姿がよぎってしまって写真を送れない。私に心配をかけさせないようにするための演技なのではないかと疑ってしまう。
『暗くなる前に帰りなよ』
「うん。ありがと」
少しだけ雑談をして電話を切った。
オレンジ色が一層濃くなって赤に近い色に景色が染まる。東の空は薄暗くなり、夜の色が顔を出していた。
もう少しで完全に日が落ちて夜の帳が下りる。一日が終わる瞬間に立ち会っているようで、それまでボーっと眺めていたい気分になった。多分これが俗に言う『黄昏れる』ってやつだ。なんとなく癒しを感じる。奏多は今なにをしてなにを思っているのだろう。さっきまで電話していたのに声を聞くと会いたくなってしまうから困る。真っ赤に燃える太陽が私の想いをたきつけてくる気がして、目を伏せた。
「香織」
会いたすぎて幻聴が聞こえたのだと思った。優しく私の名前を呼ぶ声はいつだって耳に残っている。
「香織」
肩を叩かれて目を開けると、目の前に愛しい人が立っていた。まさか本物が登場するなんて夢にも思ってなくて、情報を理解するのに時間を要した。
「え、あ、奏多? あれ? どうして?」
「ここで黄昏れてるっていう香織センサーを受信してさ。俺も仲間に入れてもらおうと思って」
ニカっと笑う奏多。この彼の笑顔に私は何度救われたか分からない。
「私センサーって絶対嘘だ」
「なんで分かった? 本当はさっき電話しながら散歩してたんだ。そしたら香織がいた。これは本当」
「そっか。この辺は奏多の生息地だもんね」
「人をポケモンみたいに言うなよ」
顔を見合わせて笑う。この空気感がすごく好きだ。ゆったりと流れ始めた時間。奏多は沈みゆく夕陽に目を細めた。
「……俺の目にはさ、この夕焼けがくすんで見えるけど、香織と同じ色が見れないからって駄々をこねることはないよ。どっちかっていうと、一緒に見てくれないことの方が嫌だ」
「奏多……」
「だからさ、写真も送ってきてくれていいし、どんな色彩かとかも全部俺に教えてよ。香織の見る景色を言葉で教えて?」
奏多の瞳には真っ赤な夕陽が映っている。どうして今まで気づかなかったのだろう。なにを一緒に見るかじゃなくて、誰と一緒に見るかが大事だということに。私はこの夕陽が見たかったんじゃない。この夕陽を見る奏多が見たかったのだ。
「うん」
私はそっと奏多の手を取った。大きくて少しカサついた、でも温かい奏多の手。あるべきところに納まったような、不思議な感覚だった。私の手は奏多と繋ぐためにあるような、心地の良いフィット感。ギュッと握り返された手は少し痛かったけど、奏多に後ろめたさを感じていた罰だと思って受け止めることにしよう。
チラリと奏多に目を向けると、彼も私を見ていて目が合う。お互いに「ふふふ」と笑い合って小突き合う。
色を共有できなくても時間を共有できたらそれでいいか。
二人で同じ色に染まりながら、手を繋いでしばらく夕暮れ時の空を眺めていた。
END.
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