第19章 街角ピアノ

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本人たちにはそれぞれ、微妙にまだ思い切れない部分があるようだ。面倒なことだな。さっさと打ち明けて付き合っちゃえばいいのに。別に誰かが邪魔するようなこともないと思うし。 と、他人は無責任に考えるけどまあ彼ら自身の問題であって、こっちが口を出すほどのことでもない。つまりまだ正式な恋人同士として周囲か扱う必要はないってことね、と承知してそのままにしておいた。 当日わたしは昼間に塾のバイトがどうしても外せなくて、特急の始発駅での待ち合わせとなった。普段使わない駅だし改札がいくつもあって複雑なので、一目でわかりやすい大きな広場で一旦落ち合ってそれから改札にみんなで向かう。って取り決めになった。 いくつもの路線が複雑に乗り入れてて、複数ある駅ビルの構造も繋がり方も難解極まりない。だけど広場をGoogleマップに登録しとけばまず間違いなく着けるでしょってことらしい。その広場が乗車予定の路線の改札に一番近いってのも待ち合わせ場所に選ばれた理由らしく、わたしは言いつけられた通り素直にマップの指示に従ってそこに向かう。 もっと迷うと思ったのに。経路は案外わかりやすくて、すんなり目的地に到着したのでだいぶ時間は余りそうだ。 駅ビルの出入り口と改札が連結してるすぐ近くの広い空間。季節のディスプレイが派手に飾り付けてあって、片隅に催事場があって忙しそうな人々が足早に入り乱れて行き来してる。足を踏み入れたとき、ぽろろん。と微かな音が響いてきて思わず辺りを見回した。 ピアノだ。 特に慣れ親しんだ経験がないわたしでもこの音は識別できる。子どもの頃からほとんどの日本人が聴き慣れてるあの軽やかで清々しい音。 雑踏のざわめきの隙間を縫うようにしてわたしの耳まで届いた。決して大きな音じゃないのに。人の声や足音に紛れて消えずに遠くまで響く。 スピーカーを通したものじゃない、って何でかすぐにわかった。だけど、こんな街中で? 電子ピアノかキーボードを弾いてるストリートミュージシャンでもそこにいるのか。と考えて何気なくぐるりと隅から隅まで見回す。 そのときわたしが立ってる地点からやや死角気味な場所に、それはあった。 夏が終わりかけの時季なので、ディスプレイはもう秋の実りの季節のデザインだ。紅葉や葡萄を模した飾りがまとわりつく神殿風の巨大な柱の隅に黒い塊の端が見える。…あそこに本物のピアノがある。音もそっちから聴こえてくるし。 自動ピアノかな、と一瞬思った。けどよく耳を澄ませると、試し弾きのように途中で止まったりやり直したりしてる。そのくせ子どもが練習するときみたいな拙さがない。何というか。…アレンジを即興でつけようとして、いろいろと試してるみたい。 わたしがあんまり今どきの流行りの曲を知らないせいもあるけど、聞き覚えのないメロディだ。そのくせ何だか妙に印象に残る。 一体どういう人が弾いてるんだろう。ちゃんとしたピアニストがイベントで弾いてるにしては妙だな。完成した曲じゃないようだし、観客も集められてない。立ち止まってそっちを見てる人がぱらぱらといるようだけど。と何気なく移動してそのピアノの全容を視界に入れたとき。 えっと思う気持ちと、ああ、やっぱり。とどこか納得する思いとが半々に胸をよぎった。 奥山くんだ。真剣な顔つきで鍵盤に覆い被さるように屈んだ小柄な細身の身体。 はらりと額にかかるさらさらの前髪が邪魔そう。何度も試すように旋律をなぞる指先はほっそりと長くて節が意外にごつい。やっぱり、ピアニストの手だな。 貴公子、って言葉が脳裏に浮かぶ。この人にはやはりこの姿が似合ってる。コンビニの制服とレジカウンターよりも。 なるべく遠くからそっと気づかれないように見守ろうとしてたのに。一体何の気配が伝わったのか、彼はふとその手を止めてぱっとこちらを振り向いた。 「…あ」 「いや。ごめん」 なんか、悪気は全然なかったんだけど。本人の意図しないところで気づかれず盗み見てたみたいでちょっと内心焦る。そんなに表情には慌ててるとは出てなかったと思うけど、彼は何故かそれを見てとったらしく軽く苦笑してこっちに向けて手招いた。 「…どうしたの、このピアノ?勝手にさわって大丈夫なの」 「うん。通りがかった人が自由に弾いていいものなんだ。ストリートピアノっていうんだけど」 「そう」 その表情と声の穏やかさに何となく安心する。もっと、ピアノに対して拒絶反応というか。トラウマみたいなものを感じてるかと勝手に思い込んでいた。 思えばわたしは彼の前でピアノの話は御法度だって決めつけ過ぎてたのかも。確かめるように鍵盤の上を軽く走る指先を見てると、嫌うとかいやだとかはもうとっくに超えてて。奥山くんにとってピアノは空気みたいに当たり前にあるものなんだなと改めて納得する。 「その曲、何?もしかして練習中なの。ピアノ用に自分でアレンジしてるとか?」 「まあ。…そんなもんかな。これはここまでしかないんだ、今の時点で。スマホでも音出せるしアレンジできるアプリもあるんだけどね。やっぱり、ピアノで音出す方が。僕は慣れてるから」
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