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「あの。…そうは言っても今まで日常的にいつも本物のピアノに触れてたのに較べると。キーボードは正直、物足りないんじゃないの?結局奥山くんにはピアノが必要なのかもしれないよね。これまでずっと物心ついたときから、そばにあったんだから」
音楽とはきっぱり手を切って普通に生きようとしたけどそれも出来なかった。だったら電子のキーボード、とか中途半端なところで手を打つより。今後本格的に復帰する可能性も念頭に置いといた方がいいのかもしれない。
「そう考えるとさ。…本当はキーボードとかで妥協するんじゃなくて。ちゃんとピアノにいつでも触れられる環境に身を置いた方がいいんじゃないの?具体的には例えば実家に戻って。ピアノの練習少しずつ再開して、ゆくゆくは改めて国内の音大受けるとか」
さっきの演奏と彼の纏うピアニストのオーラを思い出していた。フランス留学中はどうしてか、スランプみたいな状態に陥ってたのかもしれないけど。
だからってそれだけを理由にして何もかもを捨ててしまうのが正解だとも思えない。この人はやっぱりピアノと共にあるべきなんじゃないだろうか。
「何も、世界的なピアニストになることだけがピアノをやってるゴールでなくてもいいじゃない。奥山くんにとって一番いい関わり方を見つけて、ピアノに戻るのはありなんじゃないかな。さっきも見ててあなたが音楽嫌いとはどうしても思えない。…わたしが無責任に横から口出す筋合いでもないって気もするけど」
「いいんだ、大丈夫。羽有ちゃんが無責任だなんて。全然思わないよ」
彼は穏やかにそう言って、わたしを広々とした空間の中で少しでも落ち着けそうな隅っこの方へと促した。
背中に手のひらを添える仕草だけで実際には触れない。そうやってごく近くに寄り添って立つと、思ってたより身長があるのがわかった。
小学校のころはもちろん、中学卒業の時点でもまだわたしの方がやや高かったから。何となくその頃の印象のままだったんだ。今では横に並ぶとわたしより少し目線が上に来る。
あのときわたしの通う大学の門の外で、本気で走ってやっと捕まえた打ちひしがれた人と同一人物とは思えない。すっかり落ち着いた大人の表情と話し方で、彼は優しくわたしに告げた。
「もういいんだ。ピアノそのものが僕にとってどうしても必要ってわけじゃない。ショパンやラフマニノフはやっぱり今でも割と好きだけど。もう自分のこの手で弾きたいとまでは特に思っていない」
話しながらちら、と手にしたスマホの表面に視線を走らせた。わたしもつられて一緒に時間を確認する。…集合予定時刻まであと二分。
まだ他の二人は姿を見せてない。
「…だけど、これまでとは違う付き合い方で今後も音楽と関わっていけたらなって気持ちもある。どうやってそれを続けていこうかいろいろと試行錯誤して、考えてる最中だから。…考えがまとまったら。羽有ちゃんには改めてちゃんと一番最初に報告すると思う。それまで、あともう少しの間。じっくり一人で考えるよ」
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