第19章 街角ピアノ

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求人出した方ではその程度のテンションでも、現実問題なかなか欠員が出ない(つまり、定着率の高い職場。ってこと)、そこそこ安定した待遇のいい会社に滅多にない空きができた瞬間に上手いことするり、と嵌まり込んだわけだから。後に無事仕事が決まったと報告したときには職安の担当者からあなた、運がよかったね。とコメントされたらしい。 「まあ、これまで散々な不運続きだったから。たまには一回くらい運のおかげで窮地を脱することがあってもいいんじゃないの。そしたらあんたの他はみんな、職歴長い人ばっかなんだ?」 「数年前に一回事業拡張したから。そのときに五、六人まとめて新卒採用してるって。わたしはそれ以来の新人って言われたよ」 なら、歳の近い若い人もそれなりに在籍してそうだ。女性の先輩も数人いて親切に仕事を教えてくれてると聞いてわたしもようやく一部だけ肩の荷をそっと下ろしてみた。もしかしたらこのまま、上手く物事が回り始める可能性だって。絶対にないとは言い切れないかも。 そんなわけで無事、平日は仕事に通い始めただりあだが。まだほんの数日経ったところで早くも気がかりそうに眉をひそめてもじもじと話しかけてきた。 「あの、それでさ。…わたしもお仕事決まったから。なるべく早く引越し先見つけてこの家、出てった方がいいよね?うゆちゃんは他人とずっと一緒に住むの。基本苦手な人だし…」 一瞬その言葉を聞いてすぐにさっ、と辺りを確認してしまった。頭では今、彼はバイト中ってわかってたんだけど。うっかりその台詞が奥山くんの耳に入らなかったよな、と反射的に考えてしまって。 自分の普段の素っ気ない振る舞いのせいでこの子に要らんプレッシャーを与えてたのかな。と頭の中で反省しながら、ゆっくりと言葉を選びつつ彼女に向かって説く。 「…わたしが他人と暮らすのが得意かどうかとかは。今は全然考える必要ない。それをもし気にしてたんなら言っとくけど」 そうか、羽有ちゃんは一人じゃないと苦痛を感じる人なんだな。だったら一刻も早く出ていかなきゃ、とか奥山くんに思わせちゃったら目も当てられない。この子だけじゃなくそのうち彼ともこのことについてはきちんと正面から話し合わないとなと考えて言葉を継いだ。 「今はそれより、あんたや奥山くんが無事でいられることの方が優先だから。二人の生活が問題なく安定して、それぞれ独立して幸せになれそうってはっきりわかれば遠慮なく出てってもらうよ。今はそんなことより見えないところで苦労してないか、きつい思いしてないかってことの方が気になって落ち着かないから…。もう少しうちにいな、嫌でなければ。だりあの方がここにいるのもう無理、限界ってことならそりゃ。引き止めるわけにはいかないけど」 「それはないよ。…そんなわけない」 だりあは真剣な顔つきでぴょん、と跳ね上がるように顔を上げて、縋るような眼差しをこちらに向けてきた。 「うゆちゃんと住むのが限界だなんて、そんなこと…。わたしの方はいつでもうゆちゃんが大好きだからさ。けど、本当は一人が好きでその方がリラックスできる人だって知ってるから。これまでずっと無理させてるな、済まないなって思ってたんだよ。…でも、そうだね。中途半端な状態で出ていけば結局もっと心配かけることになる。それは、…そうかも。うゆちゃん、優しいから」 「優しくはないよ。ただの義務感からかもしれないじゃん」 こういうことよく本人を前にして衒いもなく言えるな。とこそばゆい思いを何とか隠して平静な表情を保つ。天然て言えば天然、あざといって言えばあざとい。多分天然にあざといんだろう。 「義務感だって全然いいよ。心配してくれてるのは本当のことでしょ。ちゃんとこれならやっていけるな、もう安心して送り出せる。ってうゆちゃんに納得してもらって円満で出ていかないとね。それまで迷惑かけて申し訳ないけど」 「それはとにかく今は気に病まなくていい。あんたがいることで助かってる面もちゃんとあるから。…例えば、奥山くんのこととか」 「奥山くん?」 突然彼の名前を耳にしてきょとんと首を傾げるだりあ。まるで無邪気なうさぎって面持ちだ。小動物感すごい。まあ、可愛いけど。 「ていうか、考えてみてよ。あんたが出て行くことになったらどうしたって、彼はもうここにいづらくなるじゃん。わたしの方は別に気にしないけど…。一応異性同士で二人きりになるわけだし」 「あ。…そりゃ、そうだね」 素っ頓狂な声を上げて納得顔になる。本当にそこに思い当たらなかったのか。まあ、実際にそれが問題だと本気で考えてるなら。実はもう既に今の状況だってアウトなはずなんだけどね。同世代の女子二人と男子ひとりの雑居状態だから。 「そうなったら何か起こるとかそんな風には考えてないよ?向こうもわたしも、別に今まで通りほどほどの距離を置いて暮らせると思う。けど、世間は絶対そうは思わないだろうし。何より奥山くんの親御さんはさすがに駄目だろって判断すると思うな。今だって正直ぎりぎり納得してもらってるわけだし…」
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