第19章 街角ピアノ

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そんなわたしの内心の考えを知ることもなく、だりあは生真面目な顔つきで素直に頷いた。 「わかった、じゃあもう少しの間ここで二人と一緒にいることにするよ。でも、奥山くんてああ見えて。まるで将来自分が何をしたいか当てがないこともないんじゃないかと思うなぁ。多分心の中では既にいろいろ考えてると思うよ。こないだね、何でそんなにいっぱい頑張ってバイト入れてるの?って訊いてみたんだ」 「へえ。…何て?」 確かに。そんなに今、生活に困ってるはずはない。 さっき話に出た通り、彼は家賃は免除だし。生活費もみんなで出し合う分にはそれほど大した額じゃない。遊びに行ったり趣味に使ったりしてる様子も全然ないし。それとも本当は何かしたいけどお金が足りなくて、我慢してることがあるのか。 単純にわたしやだりあと部屋で過ごす時間がちょっと気詰まりだから、なるべくシフトを入れてるのかと思ってた。あるいはお金が貯まったらとにかく自分で部屋を借りて一人暮らししようと準備してるか、だろうから。特にそんなに理由を気にかけたこともなかったな。 だりあは自分が引き出せた彼の返答を披露できるのが嬉しいらしく、睫毛の多い瞼をぱしぱしと瞬かせてからくりん、と見開いて得意気に答えた。 「あのね。…できたらだけど、キーボード買いたいんだって。あんまり大きすぎないやつでいいからって…。電子だからヘッドフォンすれば外に音は漏れないんだってさ。便利だよね、今ってその辺。ピアノ殺人事件とか起きなさそう」 話飛ぶなぁ。唐突に殺人事件、何? 「…それは。気持ちが落ち着いて冷静になってみたらやっぱりどうしても演奏したくなった、ってことなのかな?でもそしたら本当は、本物のピアノの方がよりいいんじゃないの?」 しばらく離れてたら結局またピアノ弾きたくなった、ってもちろん全然悪いことじゃない。だけど彼の本意がよくわからなくて、わたしは釈然とせずに首を捻った。 「うちは普通の賃貸だからもちろんだけど。本物のピアノ思いきり弾きたいんだったら防音の部屋借りないとだし。東京でそういう物件を探すのも大変だしお金もすごいかかるから何なら実家に戻った方が…。少なくとも毎日好きなだけピアノは弾けるよね。改めてどこか日本の音大受験するにも。その方が落ち着いて集中できるかも」 わたしが思案しつつそう呟くと、だりあは真面目な表情を浮かべ首を横に振った。 「そこまで本格的に弾きたいわけでもないんだって。電子ピアノじゃなくて欲しいのはキーボードらしいから…。スマホでもある程度音出せるけど、やっぱりピアノで育ってきたから鍵盤じゃないとぴんと来ないんだって言ってたな。でも、音楽絡みでやりたいことがあるのは事実なんじゃない?前みたいな関わり方じゃないかもだけど」 「ふぅん、そっか。…本格的なクラシックピアノじゃなくていい、ってことなのかな?」 例えば、バンド活動とか? キーボードと言われて思い浮かぶのがそれくらいが限度なのはまあ致し方ない。ほんとに全然そっちは詳しくないから。 けど確かに。それが今後の彼の進路に関係するかどうかはともかく(単に趣味として音楽と関わりたい、かもしれない。他ならぬわたしにとっての空手がそうだし)、やりたいことがゼロじゃない。っていうのと、本当に心の底から音楽にまつわる全てが嫌いになったわけじゃないんだ。って考えたらなんだかほっとする。 子どものときからずっとたくさんの時間をかけてピアノに打ち込んできたのを実際に見て知ってるから。あれだけ積み重ねてきたことの全部を放り出して二度と見たくもない、ってことにはならなかったんだ。と考えたら。やっぱりどんな形でも手許に残ったものが何がしかあればいいと思う。 さっきまでそろそろここを出ていかないと…っておどおどしてたことはすっかり忘れたみたいに、だりあは嬉しそうににこにこ笑ってぴょこん、と跳ねるように上体を起こしてからわたしを見上げ、宣言した。 「ね?…だから、何が言いたいのかっていうとさ。多分彼は彼なりにこれからしたいことや目指したいことを思いついて、頭の中で的を絞りつつあるんじゃないのかなって…。でなきゃこのタイミングでキーボードあったらいいなぁ、ってならないと思わない?なんか心づもりが既にあるんだよきっと。多分、音楽絡みで」 「うーん、まあ。…それはそうなのかも…」 わたしは曖昧に呟いて、無意識のうちに腕を胸の前で組んで考え込んだ。 少なくとも奥山くんの心が何らかの形で動き始めてるのは確かなようだ。キーボードうんぬんが将来の展望と結びついてるかもとか、あまり過剰に期待し過ぎるのはどうかと思うけど。 何でもかんでも仕事や将来の職業に結びつかなきゃゼロも同然って考え方にはわたしは当然、与しないので。ただ、彼の心に希望や前向きなものが生まれてきてるのならそれはよかった。 趣味でも何でも、今やりたいことがきっと奥山くんの今後の道を指し示してくれるだろう。わたしは一歩引いてただそれを見守っていればいい。
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