第十三章 攻防、鉄道郵便零号車

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第十三章 攻防、鉄道郵便零号車

「おぉぉぉぉ! 海! 海! ほんとに海の上走ってるぜ! すっっげえぇぇぇぇっ!!」 車輛から身を乗り出して、子どものように大興奮している草介。 蒸気機関が唸りを上げ、体験したことのない速度で海上のレールを疾駆してゆく。 吹き流れてくる黒煙もなんのその、空いた窓から黎明の海に向けて草介は再び叫んだ。 しっとりした空気に垂れこめた雲。海面がそうと分かるのは漁火(いさりび)のおかげだ。 「よかったなあ、草介。落ちるなよ」 傍らでそう声を掛ける隼人は、打って変わって居心地悪そうに腰掛けている。 「はーさんも見てみろよ! まだ薄暗(うすぐれ)ぇけどよう! 海の上走ってんだぜ!」 「うん、うん、心得てはおる」 初めての機関車にはしゃぐ草介に対して、どうやら隼人はこの乗り物が好きではないらしい。 日本初の鉄道路線。 それは新橋と横浜の間、1872(明治5)年の旧暦9月に開通したものだ。 隼人と草介が乗り込んだのはまさにその路線で、草介が「海の上」と興奮しているのは特設レールのことを指している。 この路線では芝浦の辺りから品川停車場までの約2.7㎞を、陸地ではなく海上に建設された築堤上を走る。 高輪築堤(たかなわちくてい)だ。 二人が乗る機関車は横浜を発し、今まさに高輪築堤を品川から新橋へ向かって通過していくところだった。 が、明治も早や13年の夏を迎えたものの、隼人はいまだこの乗り物に抵抗感がある。 「はえぇなあ! はえぇなあ!なあ、はーさんもよっく見やがれよお!」 「あまり騒ぐものではない。務めを忘れてはならぬぞ」 隼人と草介が汽車に乗り込んでいるのは物見遊山ではない。御留郵便の任務の一つだった。 この時代、既に郵便物を鉄道で運搬するという試みはなされていたが、作業用の専用車両を設けてその中で仕分けなどを行う「鉄道郵便局」は1892(明治25)年に開始される。 二人が乗っているこの便はその実験車輛であり、いわば鉄道郵便の零号車とも呼べるものだった。 そしてその荷には、重要な御留郵便も含まれている。 故に隼人や草介のような剣客逓信が、その護衛任務に就いたというわけだ。 新橋~横浜間の所要時間は53分、うち高輪築堤を走る新橋から品川までは8分の旅で、創業当時は一日9往復が運行されていた。 当初は単線だったものが1876(明治9)年には新橋~品川間で複線となり、一日13往復に増便されている。 運賃は新橋~横浜間で上等・1円12銭5厘、中等・75銭、下等・37銭5厘。 米10㎏が明治元年時点で55銭だったことを考えると、安い金額ではない。 はしゃぐ若者を前に、隼人はしばし物思いに耽った。 御留郵便の特別便として、暁闇に横浜から乗り込んだこの鉄道。 重要な品物を運ぶに際しての護衛任務といえば聞こえはいいが、鉄道郵便の本格的な導入は剣客逓信の終焉を意味してもいるのだ。 そもそも維新から十年以上が過ぎた今、届けるべき幕末からの預かり荷は既に多くはない。 郵便脚夫という職と任務はまだまだ不可欠であろうが、それに練達の剣士を充てる必要性は薄らいできたといえるだろう。 陸奥宗光の後任としてM卿になった三浦休太郎は、こうした剣客逓信の不要論者だった。 大阪で会津藩兵の遺児・瑠璃駒を巡る騒動を起こしたことで、隼人は三浦卿から激しく譴責されていた。 草介のことは庇えたものの、隼人は「時代遅れ」「郵政のお荷物」「旧幕の負債」等々ありとあらゆる罵倒を受けたのだった。 今後鉄道網が全国に敷設され、多くの手紙や品物が圧倒的な速さで安全に届けられるようになれば郵便の価値が変わる。 そして間違いなく、剣客逓信も歴史の影に姿を消していく運命だろう。 隼人らが鉄道郵便実験車輛の護衛を命じられたのは、そうした現実への見せしめのようでもある。 が、それでいいのだと隼人は思う。 やがてこの務めが終わりを迎える日はくるだろう。 剣士は不要でも、草介のような頑健な心身をもった若者たちが一層求められる世になるはずだ。 だが、隼人の胸中は最後の心残りで占められていた。 「北」で何か事が起こると予言して消えた東堂靫衛、そして任那征士郎少佐ら海軍特務の動向だ。 彼らが何をしようとしているのかは分からない。 それでも隼人は、任務の仕上げに為すべきことがまだあることを確信していた。 機関車は汽笛を鳴らし、減速を始めた。間もなく新橋駅だ。 既に夜は明け始めているものの、いつの間にか立ち込めた濃い霧のため辺りは白い闇に閉ざされたかのようだった。
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