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第一章 維新越しの恋文
「なあ……はーさんよう…!ちいっと…ばかし…一息、いれようぜえ……!」
草介はぜえぜえと息を喘がせながら、前を駆ける男に懇願した。
「ふむ」
足を緩めて振り返った五十がらみの男は、韮山笠の下で片眉をぴくりと上げる。
草介とは親子ほども歳が離れているように見えるが、面立ちは精悍そのもので長距離を走ってきたにもかかわらずうっすらとしか汗をかいていない。
駆け足を徐々に収め、大きな楠の木陰に身を寄せた。道は緩やかな上り坂にさしかかって二股になっており、木の根元には神さびた風情で地蔵が鎮座している。
天秤棒に振り分けて括りつけた荷を下ろし、草介はどさりと楠の木陰に倒れ込んだ。
「あーっ……!しんど……」
詰襟の制服の胸元を寛げ、汗と熱とを外気にさらす。緑陰に気持ちのいい風が通り過ぎ、地蔵がまとう赤い前掛けを揺らした。
“はーさん”と呼ばれた男も笠の顎紐を解いて、風に頬を撫でさせた。
短く刈り込んだ髪は燻した銀のようで、きちんと整えられた同じ色の口髭が威を備えている。
「はーさん……。ハラぁへったよう」
甘えたように訴える草介に、男はまた片眉をぴくりと上げた。
「いま食うたら夕餉はのうなるぞ。それと“はーさん”はやめよと再三申しておる」
存外に穏やかな口調なのは、こうしたやり取りはいつものことだからだ。
仰向けに寝転がっていた草介はむっくりと起き上がり、居住まいを正す。
「隼人殿、おなかがすきました」
「丁寧に言うても同じじゃ」
振り分け荷の一つを解いた二人は握り飯を取り出し、樹下に腰掛けて頬張った。
彼らの来し方は長い一本道になっており、その両脇には青々とした早苗が繁っている。
最前からの微風が稲をざわめかせ、静かに青波が立っているかのようだ。
明治8年(1875年)の初夏、郵便脚夫の草介と隼人は密命を帯びて紀伊北部の山村へと向かっていた。
二人が身に着けている紺色をした小倉織の制服は詰襟とズボンという洋装で、陸軍の軍服にも似ている。郵便脚夫の証である赤い線が袖と裾にあしらわれており、頭には前後をすぼめて風を切る形にした韮山笠。
当時の郵便集配人の特徴的な出で立ちだ。
明治3年(1871年)、それまでの飛脚制度に代わる通信事業として「郵便」が誕生した。
重さや物の種類、あるいは距離に応じて定められた全国一律料金で手紙や金品を送ることができるこの仕組みは画期的で、近代化を象徴する事業の一つだったといえよう。
草介と隼人は、通常の集配人ではない。
主に維新を境に届けられることなく保管されていた書状や小包を運ぶ、特殊任務である「御留郵便御用」を務めている。
「白飯の握り飯だったぜ。塩っけもありゃしねえ」
口いっぱいに頬張りながら草介が文句を言う。駆け通してきて汗をかいているため、体が塩気を欲しているのだ。
「よいものがある」
隼人がすかさず小さな袋を取り出し、草介に差し出した。
種を抜いてからからになるまで乾燥させた梅干しだ。古式の作り方で鮮やかな色ではないが、表面には塩が霜のように結晶している。
「また梅干しか……」
「要らぬならやらぬぞ」
「食います。いただきます」
袋から素早く二つとった草介は梅干しをかじり、次いで握り飯を頬張った。塩辛さと酸っぱさに口をすぼめつつ「うめえや」とまんざらでもない。
隼人は「ふむ」と満足そうに頷き、自身も一粒をつまんだ。
「今回の届け先、まだ生きてっかなあ」
「分からぬ」
「世が世なら大身の奥方様だろ。小藩たぁ言っても旦那は家老格だ。戊辰の戦でおっ死んじまわなきゃあ、そこそこ暮らしてかれたんじゃねえか。こんな田舎に引っ込んだままたぁ気の毒としか言えねぇよ」
「……」
「はーさん、なんか言ってくれよぅ」
「もうよい、ゆくぞ。それと“はーさん”はやめよ」
隼人は立ち上がって素早く笠をかぶり直し、はや天秤棒を担ぐ。
その様子に草介も手に付いた米粒をついばみながら、慌てて後に従った。
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