1人が本棚に入れています
本棚に追加
「し辛いします」
と「失礼します」を言い損じたような口ぶりで入ってきた次の患者は、ひどく景気の悪そうな男であった。「坊ちゃん」という小説に、うらなり君とかいうあだ名をつけられていたものがいたが、大概そんなような見た目をしていた。
顔色はすこぶる悪く、カボチャの皮のような顔をしていて、妙にむくれている。隈も酷い。髪の毛はぼさぼさで、油っぽくてらてらとしている。正直言って不健康そのものな見てくれをしていて、見るに堪えない。
声も少し具合の悪そうな印象を受ける。小さく、低い声だ。よっぽど体調が悪いのであろうと推測され、少し身構えた。
「どうぞおかけください」
立っているのもしんどそうな様子であったので、とりあえず座ってもらう。彼は小さく「ありがとうございます」とつぶやいて、回転いすにゆっくりと座った。椅子のきしむ音がした。
「本日はどうなされましたか」
できる限り、はっきりとした声で問いかける。体調不良で思考力の落ちた患者でも理解できるように、しっかりと発音するのは重要な配慮だ。大きな声でなくていい。むしろ大きな声は頭痛持ちの人からしたら害でしかない。極力歯切れよく、明快な言葉をチョイスするとよい。
「それがですね。ちょっと込み入った話になってしまうのですが、よろしいでしょうか」
喋り方こそスローモーで重苦しいが、なんだか言葉自体はしっかりしている。という印象。
「いいですよ。ゆっくりでかまいません」
と軽く促す。こんな様子で、長々と説明ができるかは疑問だが、取りあえず耳を傾けることにした。
男はローテンションながら、丁寧な口調で話し始めた。
「私は趣味で小説を書いているものでしてね。小さな賞を二、三獲らせていただいているので、それなりに腕には自信があるほうなんです。」
男に見えるのは、体調が悪い、という割には。というぬぐえない違和感。そういえば咳もくしゃみを出てはいない。鼻水もないようだ。
「そういうわけですから、いろんなコンクールに出品することも少なくない訳なんです。今月も、そういって小さな賞に応募したんですよ」
言葉はある程度すらすら出てくる。気はしっかりしていると見て間違いはないだろう。
「で、今回は作品のテーマがあらかじめ設定されていたんですね。サッカーについての小説を書かないといけない。私はスポーツなんかには疎い人間でしたから、ちょっと手詰まりを起こすかもな、ぐらいの認識で執筆を始めたのを覚えています」
全く本題に触れる気配がないな。たぶん単に体調不良とかじゃないぞ、これ。事前の問診表が怪文書になっていたから、相当な重病人が来ると覚悟していたが、少々見積もりを誤った心地がする。
「しかし人の要望にも臨機応変に対応できてこそプロフェッショナルというもの。そう意気込んで、ネタ出しをはじめようと奮起した矢先の出来事でした」
だんだん喋りにゲンが乗ってきた。たぶん佳境に入るなと予想する。
「――私、そんなつもりはなかったんですけどね。ついうっかり、『作家として、サッカーの話を書き上げるぞ』って。言ってしまったんです。」
声を落とすタイミングが、話上手のそれだ。元気だろ。
「そこからなんです。私の悪夢が始まったのは」
声に張りが出てきた。単に会話のギアの入り方の都合で低迷していた可能性が出てきた。
「サッカーに関するネタを出したいのに、『サッカーか。じゃあ作家を主役に置いたミステリなんてどうだろうか。ちょっとありきたりかな。でもゲレンデとか舞台に凝って……、いやサッカーの話だよ』と、作家が頭の片隅にちらつくんです」
小芝居を交えて、小粋に語ってみる彼。
「サッカーと作家。小学生が解くなぞなぞレベルの低俗なダジャレが頭から離れないんです。それどころか、正直強引なダジャレが時々言葉尻にまじってきて、どうにかなりそうなんです」
すっかり表情を得た彼の口調から、悲痛な心境が伝わってくる。くそくだらないと思わんでもないが、よほど当人にとっては応えているようである。
あまり専門的なアドバイスができるようなケースではないかもしれないが、一人間として、寄り添ってあげようと思った。
「お笑いとかは見る方ですか」
「医者~、そんなにバラエティとかには明るくなくて」
「えっと、今のは『いや~』と『医者』をかけたギャグですか?」
「あっ」
そういって彼は頭を抱える。無意識の領域にまで症状が侵食を始めているという証拠であろう。身体には何も問題がないが、実生活に影響が出る可能性がある。放置するのは良くない。
「こういう問題は、よほど精神科の人のほうが専門的なことを言ってくれると思うんですが、私の一般的な感覚から言わせてもらうと、そのダジャレのレベルを上げる方向にシフトした方がよいと思います」
私の言葉に、彼はゆっくりと顔をあげる。
「そういう反射的にまで染みついた習慣は、矯正してしまうより、活かしてしまう方が楽だし得だと思いませんか?まずはお笑い番組を見たりして、面白いギャグに昇華できるように試行してみるといいと思います」
私の言葉を彼はじっくりと反芻する。
彼は、さっきあんな話ぶりを披露したのに何をいまさらというほどのしおらしさで、うつむきながら、
「できるでしょうか」と言う。
できるかできないかは判然としないが、
「言葉を扱うのは、得意でしょう?」
とだけ言うと、彼は少し晴れた顔をした。
適当にカルテをつけて、薬も出さずに彼を帰してしまったが、彼は満足げな顔をしていた。
医者らしいことは、何一つできなかったが、
「まあい医者」と言って、私は小さく笑った。
最初のコメントを投稿しよう!