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序章 あたらしい生活 ⑦彼には、その……使命を。
「故国のセイカはね。法術士を国家ぐるみで囲い込むんだ。おれは、それがいやで」
「――飛び出したんですね。なるほど」
コトコト、トントン。
まな板で食材を切る音や具材を煮込む音にまぎれて会話をする。ほとんどがシオンの身の上話だった。
すべての調理器具を洗い終え、一段落させたコリスが細く長く息を吐いた。しゅるりと髪をまとめていた布をほどき、食器棚の引き出しの把手に掛ける。
館の二階の窓からは茜色に染まり始めた空が見えた。
もう少し藍色が広がるころには炙った鶏肉のトマトスープ煮が完成する。すでに芳しい匂いは立ちこめ、美味しい夕食は約束されたも同然だった。
ところで、と、コリスはシオンを見上げた。
「『おれ』というのは直さないんですか? もうセイカだって諦めてるんじゃないでしょうか。二年も経つんでしょう?」
「どうかなあ……。それが、すっかり男言葉が身についちゃって。女物の服でも着れば自然に戻るとは思うけど。あちこちで法術がらみの依頼はこなしちゃってるから、もう“流れの男法術士”って噂は崩したくないんだ」
過去をさらい、ちょっと眉をひそめる。
脱出後に居着いた砂漠のオアシスでも、そのあと同行した旅芸人の一座でも、結局は法術に頼ってしまった。その場所や、居合わせた人々を守るためだった。
それが場所を転々とせざるを得なかった理由でもあり、根本的に自分を生かすわざでもある。
――――わかっている。目に見えない不思議な世とは、もはや、幼いころから身近にありすぎて切っても切れない。
心のどこかでは、もう本名や女に戻ることはないと思っていた。
(…………)
遠い目で諦め口調のシオンに、コリスはちょっとだけ沈黙を挟んで首を傾げる。
それから、やおら明るい口調になり、ぱぁっと笑った。
「よーし、わかりました! うっかり漏らさないよう、わたしも気を付けますね。ささ、続きはあっちでお話しましょ。もう一つ、とびきり大きな問題がありますからね」
「あ、うん。そうだった。――ありがとう、コリスさん」
「ふふっ。どういたしまして」
ふたり、淹れておいた香草茶を手にとる。どちらからともなく続きの居間へと移動した。
そこには床に直接脚を折って座る半人半馬の少年神・ケントウリがいた。
◆◇◆
「やあ、すまないね。お邪魔して」
「いえいえ。こちらこそ申し訳ありません。獣神様に、そんな低い場所に」
「構わないよ。楽だし」
「はあ」
何とも気さくな神様である。
聞けば、ケントウリは獣神一族の智慧を司るという。
獅子神レオニールは膂力や武勇を。
鳥神ガルーダは魂の自由さや心根の朗らかさを。
ずっと、太古からこの地で多くの獣人たちを見守ってくれたそうだが……。
「徐々にね、力が弱くなったんだ。仕方のないことだ。『獣神』とある以上、他種族との混血も進むいま、我らがそのままの姿を留めるには無理がある」
「そういうものですか。てっきり、わたしたちの、獣神様がたへの信仰が足りないんだと思っていました」
「それもあるけど」
「「あるんですか!!」」
「ふふふ」
穏やかに微笑む浅黒い肌の少年神は、どこか南国の王子めいて見える。――半裸だし、上半身限定ではあるが。
彼は、そのまま重大発言をした。
「じつはね。谷の長にはその打開策のために旅立ってもらった」
「え?」
「ザイダル……ですね。確かに、彼も長い旅の途中のようでした。どういうことです?」
ちょっと前に出会った、ひとの良い熊おじさんを思い出す。
そういえば、なぜあんなところにいたのか。行き先を訊いておけば良かったかな、と、ちらりと考えがよぎる。
ケントウリは、ほんの少しだけ申し訳無さそうな顔をした。
「彼には、その……使命を。我々の代わりに新しい女神か、神の加護が殊更深い女性を妻にするよう送り出したんだ。もう何年も前のことだよ」
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