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彼の発した言葉が上辺だけに聞こえる成瀬は肩を落としたが、自分も同じことをしたんだと思い直す。『先生で良かった』なんて嘘っぱち。あんな別れ方をした元彼と同じ職場で働くなんて困惑以外の何物でもないんだから……
「成瀬君はここへ来て6~7年になるって聞いたけど、その前はどこにいたの?」
松岡が初めて過去について質問してきた。これまで交わした会話は業務のことと ほんの少しの雑談だったので、成瀬は戸惑いながら言葉を選ぶ。
「先生が移動されたあと、1年間はあの病院に勤めていました。その間、母との和解、姉の結婚、父の死去、実家の売却と立て続けにいろんなことが起こって、それが落ち着いたあと一念発起して東京の病院へ再就職したんです」
「そうだったんだ……。でも、どうしてここへ来ようと思ったの? 過疎地の看護師になろうと決めた理由は?」
「親友が この村の出身者で過疎地の医療現状を聞いたのがきっかけです。その彼が亡くなって『生きる意味』を考えた時、ここを思い出しました。このまま組織の一員として働くより、自分の存在が人の為になる…… しいてはそれが生きがいや やりがいに繋がるような仕事をしたいと思って」
松岡以外の男の存在を明らかにして心を震わす成瀬。
――― あなたは人を愛することを教えてくれた恩人だけど、彼は生涯のパートナー。死後も心の中で生き続け、今でも彼の声を聴いている。そう、自分はもうあなたの知っている【成瀬 光】ではないんです
箸を休めてそれぞれの思いに耽る二人に女性が声を掛けてきた。
「松岡先生はS市の公立病院の副院長だったとでしょう? なのに、どうしてこんな所へ来なさったんです?」
「医師として先が見えていましたからね。これまでとは違った環境で新たな挑戦をしてみたいという思いと、利権にとらわれてばかりの人生におさらばしたいっていう理由の他にもう一つ。何だと思います?」
「さあ、なんでしょう?」
「妻との離婚です。それが一番のきっかけかな」
松岡がここへ就職した理由を聞いても「やはり」としか思わなかった成瀬だが、その後 話題が家族のことに移ると顔を上げた。子どもの有無を聞かれた松岡が「社会人の息子が一人いる」と答えるや否や、懐かしさのあまり会話に割り込む。
「あの息子さんが社会人だなんて……。そりゃそうですよね、あれから20年以上経つんですもんね」
「アイツ、今年国試に受かって今は初期研修中なんだ」
「初期研修…… 息子さん、ドクターになられたんですか?」
「うん」
「優秀なんですね」
「どうかな。でも、「医者になりたい」って言われた時は嬉しかった。息子から認められたような気がして」
「写真あるけど見る?」そう言われた成瀬は、順に回って来たスマホを受け取ると目を凝らした。
それは、旅先で撮ったようなスナップ写真。築100年以上と思われる老舗宿の門前で高齢男性を支えるように立っている。
若竹のようにスラリとした容貌。顔立ちは昔一度だけ見た松岡の妻の面差しを宿していて端正だ。しかし、成瀬が目を見張ったのは後ろに佇む建物。門柱に掲げられた屋号はどこかで耳にした名で、記憶を辿ると それが松岡の実家であることが分かった。ということは、この老人は松岡の父親なのか……?
「お子さんは一人だけ?」
「うん、コイツだけ」
「子育てってどうでした?」
「どうって…… 妻に任せっきりだったから何とも」
「スポーツとか一緒にしましたか?」
「いやあ、していないね。まだ小さい頃、運動会とかサッカークラブの応援に行ったくらい。あんまりいいオヤジじゃなかったんだ」
「忙しいですもんね」
「結婚も子育ても後悔することばかりさ」
「そんなこと……」と言いながら、成瀬の中に罪悪感が芽生える。
彼がこの世に生を受けた大事な時期に父親を浮気に走らせてしまった。そのことを申し訳なく思いながらスマホを返そうとしたら、その手に松岡の指が重なった。
驚いて松岡を見つめると、彼の唇には こちらの反応を楽しむかような笑みが浮かんでいる。わざとやったんだ――― そう思って乱暴に手を引っ込めると、堰を切ったように質問された。
「東京での暮らしはどうだった?」
「とにかく人が多くて、満員電車に乗るのが苦痛でした」
「でも、面白いこともあったんだろう?」
「人も町も文化も刺激的で飽きることが無かったです。休みの日にはいろんなところに出歩いて金も時間もあっという間になくなりました」
「いい出会いもあった?」
「そうですね、仕事でもプライベートでも人には恵まれたと思います。彼らとは今でも連絡を取り合う仲です」
「充実した生活を送っていたんだな」
「先生こそ しばらく会わない間にこんなに出世して立派になられていたので驚きました」
「妻には見捨てられたけど」
「それはお気の毒でしたけど、立派な息子さんがいらっしゃるじゃないですか」
「まあ……ね」
「仕事と子育てが成功したんですから充分ですよ」
慰め半分励まし半分で言うと、松岡は「そうだね、そう思わないとね」と目を綻ばせる。その笑顔が昔と同じだったので成瀬は思わず見入ってしまうのだった。
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