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『もしかして、急患?』と、身を引き締めながら電話に出たが、第一声の『夜分遅く申し訳ないね』の声音に緊張感がない。『あれ、違った?』と、首を傾げていたら『明日の昼、用事がある?』と言われてドキリとする。
「いえ、別に何もないですけど」
『実は、花見の誘いなんだ』
「花見?」
『診療所の向こうに大きな桜の木があるだろう? 明日の昼、その下にゴザを敷いて弁当でも食べようって、津原さんがね』
まさか、花見に誘われるとは思わなかった成瀬は二の句が継げずにいたが、津原も一緒ならばと了承する。
「もう満開ですもんね。わかりました、仕事を早く終わらせて時間を空けておきます」
話を終えると、成瀬は戸惑い始めた。仕事中の雑談は忙しいふりをして切り上げることが出来るけれど、電話だと そうはいかない。立場上、先に切ることがしづらくて話題を探していたら、松岡の方から話しかけてきた。
『そういえば、今日はありがとう。君が説得してくれたお陰で伊藤さんが市立病院への受診を承諾してくれた。自分じゃとても無理だったよ』
伊藤とは診療所に通院している70代の患者で、糖尿病性腎症が悪化したため透析を勧めたのだが拒否。どうしたものかと頭を悩ませていたのだが、成瀬の尽力で他院への受診が決まった。
『いつもフォローしてくれてありがとう』
「とんでもない。大したことはしていません」
『いや、君のおかげで診療所の運営ができている。本当に感謝しているんだ』
受話口から届く声音は、耳障りの良い低音。もうずいぶん昔に聞いたそれが時を越えて再び鼓膜を振るわせて、懐かしさに目を細める。
――― 昔もこんな感じだった。彼の声はいつも穏やかで安心感を与えてくれて
「先生も大変ですよね、仕事も環境も一変して」
『覚悟して来たつもりだったけど、甘かったと痛感しているんだ……』
松岡が弱音を吐き出したので、成瀬は焦った。そりゃあ、いきなりこんな場所で暮らし始めたら里心がつくのは火を見るよりも明らかだけれど、こればかりは自分の力で乗り切ってもらわないと困る。仕事のことならまだしも、プライベートに深入りすることを避けたかった成瀬は上辺だけの励ましの言葉を掛けた。
「僕で良ければ何でも力になります。そういえば、明日は何を準備したらいいんでしょう?」
すると、松岡は「あした?」と聞き返してきた。彼的には自分の悩みにもっと親身になって欲しかったんだろうが、成瀬が話題をすり替えてしまったため語尾に不満を滲ませている。
「花見のことですよ」
『ああ……、別に何も。津原さんが3人分のお弁当を作ってくれるそうだから手ぶらでいい』
『嬉しいな。じゃあ、おやすみなさい』
こうしてさっさと電話を切り上げた成瀬は罪悪感を覚えた。
あの松岡が不安を口に出して弱みを見せたと言うのに、自分はそれを袖にした。もし彼が辞表を提出することになったら責任の一端は自分にもある…… そう思った成瀬はスマホを手にしたまま うな垂れるのだった。
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