通り雨

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「あかんなぁ、調子がイマイチや」  テーブルに愛用マイクSHUREを置く。  ライブハウスでも使われる事の多いこのマイクは、歌い手の声をかなりダイレクトに拾う。何より自分自身の耳が誤魔化せない。 「帰ろ」  こんな日は無理しても良い歌は歌えない。この位にして家に帰ろう。  俺はマイクをカバンにしまい込み、カラオケ店の精算レシートを持って立ち上がった。 「おっと、ログアウト」  デンモクというカラオケのリモコンに表示された自分の名前のアイコンを押す。  境川鯉太郎。  それが俺のカラオケでの登録名。思い付きでつけた割には、男らしくてなかなか良い名だと思う。本名が境川大誠(たいせい)なので、名字だけはもじったが。  最近は仕事が忙しいので、帰宅前のこの僅かな1、2時間のカラオケが俺の憩いのひとときってやつだ。 「うわっ、寒ぅ」  店の外に出るといきなり吐く息が真っ白だ。急いで自分の車に乗りエンジンを掛けた、すぐに発進して自宅へと向かう道を辿る。    今も俺は歌が好きだけど、まだ学生だった若い頃にはフォークソングに夢中になったり友達連中と学園祭に出る為のバンドを組んでギターを掻き鳴らし歌った事もあった。生意気に歌手を夢見た事もあったなぁ。  夢多き青春時代を過ごした俺も、今では可愛い娘もいる立派な(笑)お父さんだ。  弁護士という多少堅苦しい職業ではあるが、俺は俺の仕事が誰かを幸せに出来る数少ない仕事だと信じてここまでやって来たのだが……  なんか最近、イマイチ元気が出ない。妙に後味が悪いんだよな。  原因は分かってる。先日ケリのついた俺の担当した離婚調停の裁判だ。  夫の浮気が原因で離婚を望んだ妻が俺の依頼人。その希望は莫大な慰謝料とまだ3才の娘の親権、そしてやはり高額な養育費。  父親の実家はかなりの資産家で、金銭的な面での問題はほぼ無いと思われたのだが。  妻の側から、離婚後には娘に一切会わせたくないという要望が出された所から話は暗礁に。  父親の方も、娘は溺愛していた。 『あの人は由奈の誕生日にもあの女と浮気をしていたんです。絶対に許せない。そんな人に由奈を会わせられませんわ!!』  俺に詰め寄るように言い放った依頼人であるその妻は、離婚後の名を有賀摩季と言った。  依頼人の事を悪く言うのもなんだが、今思ってもちょっと言動が病的だったと思う。被害妄想体質というか、自分は悲劇のヒロインと思い込もうとする度合いが強いというか。  裁判で争った相手だが、あれでは旦那の方も大変だったのではと思う。つい浮気する気持ちも分かるような…いや、失礼。  けど、俺も人の子の親だ。由奈の父親の気持ちも痛いほど分かる。  断固拒否の姿勢を貫こうとする摩季だったが、相手が慰謝料増額の条件を掲示するといきなり態度が軟化。  半年に一度の面会という、それでも父親にとっては辛い条件を摩季は渋々と承諾した。そしてやっと離婚が成立したのだ。  本当ならば引受けた仕事の無事成立にはほっと一息で、いつものようにカラオケで好きな歌を歌い美味い酒でも呑みたいところなのだが。今回はさすがにそんな気にもなれなかった。    ずっと気になっている。    あの由奈という少女は、これからもあの母親と一緒に、幸せに暮らして行けるのだろうか。
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