せんさいせん

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 帰蝶――そう小さく呼ばれた。  振り返るとノブが繁みから顔を出している。大丈夫だと頷けば、ノブは音を立てずに繁みから出てきた。 「今のがお父上か?」  首肯する。 「機嫌が悪かったのか?」  小声で話すそれに、私は首を傾げる。 「今のが機嫌が悪いということであれば父は常に機嫌が悪いことになるかしら」 「苦しい思いをしてないか?」 「誰が?」 「帰蝶が」 「私が?」  ――私が苦しい?  疑問にも感じたことがなかったことをノブに指摘され、胸に手を当てる。 「ここでの生活は楽しいか?」  楽しいのだろうか?  ここで生活することが当たり前で、ここ以外で生きていくことを考えたことなどなかった。 「ノブはどんな所で暮らしてるの?」 「儂は……、そうだな。檻のような所か?」 「檻から抜け出したの?」 「まあ、そのようなものだな」 「苦しくて逃げてきたの?」 「うむ……苦しいとは少し違うが、時々息が詰まるのだ。もっと自由に生きたいのだが、なかなか」 「自由?」 「儂は海に出たい」 「うみ?」 「見たことあるか?」  私は首を横に振る。 「すごいぞ、海は。この空のように雄大だ」  ノブが空に向けて手を伸ばす。私も空を見上げた。 「私は空が好き」 「それなら帰蝶もきっと海を好きになる」  太陽のようなまぶしい笑顔を浮かべるノブの表情がとても素敵だと感じた。 「帰蝶、海に行こう!」  共に、とノブは手を差し出す。  しかし私はその手を取れない。 「帰蝶?」 「私は、ここを下りることはできない」 「なぜ?」  なぜ、と問われ、私はそれに自問する。 「なぜかしら?」 「下りれぬ理由があるのか?」 「父に下りてはいけないと」 「どうして?」 「私はここで仕事をしないといけないの。それに崖下を見ると足が竦むし、下には魔物がたくさんいるんでしょ?」 「仕事は少しばかり休んだって平気さ。それから魔物? 魔物なんてものはいない。いるのは猪や鹿だろう」 「そうなの?」 「帰蝶はお父上に縛られているのだな」  ノブが私の両肩を力強く押さえる。 「動けないだろう?」  ノブの目を見るが声さえも出ない。ノブの瞳は力強くこちらを射抜く。父と同じ。支配者の目。   「お父上に逆らえないよう躾けられてきたのだろう。お父上の言葉には是としか返答できず、言われるがまま」  まさにその通りだと思った。  異を唱えるなどしたことはない。  それに疑問を感じることもなく生きてきた。  ノブが肩にある手を私の背中に回す。右肩にノブの顎がのった。 「自由になれ。お前は帰蝶だ。自由に空を飛ぶ蝶なのだ。自分の翅で飛べるのだ!」  ノブのその言葉に、胸の奥が弾けた。 「わ、たし……、崖下に……行ってみたい」  ノブが大きく肯いた。  
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